ことばのフィルター

 
 最初に断っておくが、今回のコラムは多少私の倫理観について誤解を招く可能性のある部分を含んでいる。
 決してふざけ半分での考察ではないことを表明しておきたい。

 実を言うと、この現象には数カ月前に気づいていた。
 「小人さん」という単語を入力したくてキーを打ったら、ATOK11では変換されないのである。
 これは、「小人」という語が、病気のために短肢である人への差別的なニュアンスを含むために、そういう配慮がなされているのだろう、とは即座に気が付いた。で、試しに他の所謂「差別用語(嫌な言葉だが)」を打ち込んでみたところ、ものの見事に変換されなかった。

 つまり、IMEのレベルで「言葉の自主規制」が行われているのである。あまり恣意的にその手の言葉を打つ人もあまりいないと思うので、お気づきでない方が多いのではないだろうか?
 こっちは「靴屋の小人さん」的なニュアンスで使おうとしているのだが、わざわざ「こ」「ひと」に分けて変換していると、何か自分がとんでもない人でなしのように思えてくるのであった。そんなつもりじゃないのにい。

 ちなみに、ATOK(11)とMS−IME(97)では若干基準が異なるようで、ちょっと試してみた結果は以下の通り。

*双方で変換不可だったもの
・唖・盲など、身体障害に関わる語
・「支那」「土人」「人夫」「人足」「非人」「合いの子」など

*ATOKのみ不可
・「小人」

*MS−IMEのみ不可
・「座頭」
 他にも色々あるのだろうけど、そんなに詳しくやる必要もないと思うので割愛・・・

 確かに、以前は専ら差別的なニュアンスとして用いられていた語だ。いや、今だってそういった問題に無頓着な人は平気で使うから規制されるのだろう。これらの言葉を使われたり、聞くだけでも不快な思いをすることが多々ある。それは理解している。
 TV局や出版社では、これらの言葉が一覧にまとめられ、「放送禁止」「出版禁止」用語とされている。誤って使ったなら、「不適切な表現をしてしまいました」とお詫びする。出版も放送も公共に流れるもの。聞いて不快な思いをする人が一人でもいるなら、当然の配慮には違いない。しかし、そうやって結局タブーを作ることは、どこか、それらの事情を持つ人までもタブー視すること、そして言葉狩りにつながりはしないだろうか。
 多分、「配慮」と「暗黙のタブー」の二つを同時に抱える宿命ではあるのだろう。

 そういう事情のために、再放送され得ない番組がある。再放送されても、セリフの一部が抜かされる(おびただしい場合は、話自体が理解困難になるときもある。「サイボーグ009」の再放送では「合いの子」という言葉が全て削除され、なんでジョーがぐれちゃったのか、見る人にはさっぱり分からなかった。)。
 「座頭市」は何とかセーフかもしれないが、「唖侍・鬼一方眼」はもう完全にアウトだ。時代劇の障害を持ち、それ故の鬼気を持ち、なお強かったヒーローの姿、それを熱演した鬼気迫る演技がもう見られないと思うと、大きい損失だという気がする。(後日注:「座頭市」はご存知の通り、北野武監督のメガホンで蘇った。)
 もっといえば、「障害者ヒーロー」はなかったことにされている。それはちょっと違うんじゃないだろうか?
 少なくとも、最近の「障害者を主人公にしてお涙視聴率頂戴を狙う」ドラマ群なんかよりも健全なあり方のドラマだと思うのだが。
 障害を乗り越えるストーリーや、難病と戦う主人公の姿(で、大抵は恋愛が絡む)が人の心を引きつけるのは「ハイジ」の昔から実証済み。あまり意図的に使うのはちょっと「あざとい」んじゃないか、とひねくれた私は思うのだが(某ドラマの常盤貴子なんて、車椅子の上に難病だった。あざといな〜)。

 仕事で古典を教えているのだが、そう言ったときも言葉の問題でちょっと困惑するときがある。
 その言葉が「使用禁止」とされたのはごくごく最近のこと。当然以前(それも1000年も前)はそんなニュアンスは含まれていない。語義自体が違う意味だったりもする。当然原文を改竄したりはできないから、そのまま使用する。そういうときに、「この言葉は、今はちょっと使うのはまずいんだけども」なんて一々付け加えるのもちょっと妙だったりする。(注でも、規制されそうな言葉が使われているのも珍しくない。)でも、殊に田舎では、「その言葉を聞いて不愉快になる人がいる」ということを知らずに言葉を使ってしまうことも多く(例えば、山形では「部落」という言葉は単に「集落・ムラ」を指して通常使用してるのだが、その感覚で他県で普通に使って顰蹙を買うとか))、他地域に出るときの為にも教えてやった方がいいか?それが教師の勤めかも?とかも思う。さじ加減が難しい所だ。
 例えば、「ゐざる」という動詞。現在では勿論使用を薦められないが、かといって、「重い十二単を着て、膝行して移動する」のを表す言葉が他にないのだから仕方がない。
 古典文化に関わる文章を入力していたり、書名を打ったりするときに若干のストレスを感じるのは事実だが、その程度のことは我慢すべきことなのだろう。それにしても、IMEが言葉の自主規制をして、文字出力のモラル・ガイドラインとなっていること自体は興味深いことである。

 正直な話をします。当初、このコラムは隠しファイルにしておこうかと思いました。
 しかし、「何で隠す必要があるのか?」と考え直しました。決して不穏当な意図のもとに書いた文章ではありませんし、何より「隠す」行為が、徒に「暗黙タブー」を作る一部の風潮と同じではないだろうか、と考えた故のことです。
 とはいえ、今回の文章を読んで気分を害された方もいらっしゃるかと思います。あらかじめ謝罪いたします。この文章について抗議・異論のある方は、お手数ですが、電子メールにてお願いいたします。

後日追記:サイト構築時期に書いた文章なので、若干作品などの事情が変わっている部分もあります。
追記時点ではIME2000を使用していますが、変換の規制は相変わらずのようです。