「何がオモロイの?」…こっちが訊きたい…

 相原コージの「なにがオモロイの?(詳細は文末)」…買う気はなかったのだが相方が買ってきてしまった。
 最初に断っておくけれど、私は相原コージは好きだった。過去形だけど、「コージ苑」では「わりと好き」、「サルまん」では「凄い」と思った。
 「ムジナ」も読んだ。生理的にきつすぎて途中で挫折した。
 やはり「サルまん」で手の内をすべて晒した後だから、描くこと自体今までのようにはいかなくなっているのだろう、とも思った。
 「漫歌」も買った。ほとんど笑えなかったが、頑張って試みているのはよく分かった。この先もっとどうにかなってくれるのではないかと思っていた。
 ご存じない方のために説明しておくと、この企画はまず「どういうギャグマンガが『面白い』のか分からなくなった」と主張する相原コージが、一回一回狙い目のアウトラインを説明してからマンガを一編発表することから始まる。
 その後実際に読者に読んでもらって、「笑えたか、笑えないか」「どのコマで笑えたか」の出口調査を行って毎回発表。
 加えてネット上でも発表し、読者の意見を募って集計し、作者がそれを受けて考察し、方向性を模索していく…という形式。
 結論から言うと、私は一度もくすりとも笑えなかった。むしろ不快で辛かった。
 そもそも、ギャグマンガ(お笑いメディアすべてに言えることだが)一本ごとに、「狙い目の前説」をされ、読み終われば「ここでこう狙ったんだけどなあ。伝わりづらかった?」と説明される。そのシチュエーションが苦痛でなくてなんだろう?(後説がネタやキャラとして許されるのはマギー司郎か蛭子さんくらいのものだ)
 描線そのものに先天的に「快さ」が存在していない…というのも大きいとは思うが、むしろネタのダメさよりも、毎回入る相原コージ自身の返答に不快の源がある。そこが致命的だ。しかもそれ自体が「ネタ」ならそれ自体を笑えるけど、そこまで昇華していないのが痛い。
 そう、落ち込むにしろ喜ぶにしろ、言動がことごとく「痛い奴」の条件を満たしている。
 かつて好きだった作家がそこまで来てしまったのは本当に淋しいが、ここまで揃うと… 

 最初に
 「さあ読者諸君よ、遠慮はいらない、ドシドシ俺に教えてほしい/俺のギャグは面白いのか?俺は裸の王様なのか?(p7)」
 と了見の広い所を見せておきながら、

 「否定的な意見も相変わらず多かったけど 聞く耳持たんことにしたもんね(4回:p32)」
  #それって企画の意味があるのか?

 「こんな不毛なとこで勝って何になる!?そんなにエラソーに言うなら、お前が面白いギャグ描いてみろ!面白いことやってみろ!(7回:p50)」
  #あー、そんな序盤で禁句を。プロなら言ってはいけないセリフでしょう。料理人が客に対して「じゃあお前が寿司握れよ」とか言うシーンを想定してほしい。ダメさが分かるでしょう。

 「もー誰のゆーことも聞かん。オレはオレの描きたいギャグを描く。(9〜11回)」
  #だからこんな企画やらないで好きに描けばいいのに…

 「笑率はよくないけど、否定的な意見は的外れな感じだし、肯定的な意見にオレは手応えを感じました。僕のまわりでも評価高いんだけどなぁ。(15回:p98)」
  #都合のいい意見しか聞き入れないって典型的老化の症状。まだ早いでしょ、相原先生。

 「ここんトコ、何か調子いいぞ!改心するヤツもぼちぼち出てきたみたいだし(17回:p110)」
  #もはや「批判=悪」ですか…

 「おかしーなー…笑えると思ったんだけどなー…(5回:p38)」
 「その22もイマイチだったかー。オカシイなー…(22回:p140)」
  #単なる弱音。金払ってる誌上でそういうこと言ってほしくないなあ。「オカシイなー」って、そりゃないだろう。

「フハハハハハ、(笑率が)な、なんと70%だよ!!(中略)オレのギャグがワールドワイドなスケールだったために、島国根性・メダカ民族の日本人には理解されなかったんだな、うん(29回:p182)」
  #アメリカ人向けに描いて評判がよかった回。この浮かれっぷり、もちろんネタですよね?

「(「親」ターゲットの回で笑率が悪く)しかしそれでいいのだ。『親』はこーゆーもので顔をしかめるぐらいがちょうどイイ。(40回:p248)」
  #典型的な「合理化」。70年代の悪書追放運動と戦った先輩達に土下座してほしい。


 あー、揚げ足取りみたいでイヤだけど、全項こんな感じ。
 「すべてネタ」なら、マジレスの私が格好悪い。そう言われる前に「すいません、読みとる頭が足りてませんでした」とあらかじめ謝っておこう。
 でもそういうネタには反応できないし、払う金もかける時間もない。

 少なくとも私にはひとかけらの洒落っけも感じられなかった。
 一番不快だったのは、「女性=かわいいもの好き」を対象にしたマンガの時。
 いざ自分が対象になってみると、はっきり「女なめとんのかー!!」と憤りたくなる安易さと意味不明さで腹立たしかった。
 ここまで追いつめられてるのに、「こんなもんだろ?」的な態度、マンガ表現に正面からも斜めからも対峙していない甘さばかりが目に付いた。
 あと、海外編も意図不明。エジプト人や中国人に受けるマンガを描いてどうしたいんだろ?
 読み終わってみて、「やっただけの価値があった」と伝わってくるものがなく、結果的に自家撞着を産んだだけというのが悲しいのだ。
 この人は今、悪い意味で「手塚治虫病」にかかっているのではないだろうか。
 劇画・スポ根ブームの際、手塚治虫が「巨人の星」をアシスタント達の眼前に突きつけ、「このマンガのどこが(オレのマンガより)面白いか説明しろ」と迫ったのは有名な話。手塚御大はその後見事に甦ったが、さて相原コージはどうなるんだろう。
 きっとこの漫画家は今、「何で大橋ツヨシ(でもとり・みきでも唐沢なをきでも榎本俊二でも喜国雅彦でも)は良くて、俺のはダメなんだ?」という思いで一杯なんじゃないだろうか。そしてその答えに気づかないか、耳目を塞いでいるかのどっちか。
 まえがきで、ここに至るきっかけとして、周りの人間がマンガへの感想を控え(つまり面白くないということ)、編集とも「面白さ」のセンスが合わないようになり、「作品を描いても霧の中にボールを投げているようだ(p6)」と語っている。
 きっと、今こそが再飛翔の数少ないチャンスなのだと思う。
 唐沢なをきも、「夕刊フジ」連載の「夕刊赤富士」に関して、「とにかく読者からも編集からも反応がなくて、かなり好き勝手にやっても反応がなく、精神的につらくて連載を自分から打ち切った」と語っている。しかし「夕刊赤富士」での手法実験や思い切ったナンセンスの徹底が後の名作のスタイルを生み出すヒントになった部分は大きい。
 見方を変えれば、「好き勝手にやっていい」と与えられた小さからぬチャンス(とか言って、「漫歌」もそうだった気もするが)。読者を呪ったり独善に走っている場合ではないんじゃないだろうか?ここでマンガを舐めたら後はない。
 漫画界には、人の意見に聞く耳持たず、独善的な作品ばかり描いていたずらに過去の名作まで汚す「老害漫画家(怖いので実名挙げません)」も存在する。ホント、ギャグ漫画家の賞味期限は短いとはいえ、老害まき散らすにはまだ早いと思うんだけどな。一抹の期待は捨てきれないんだけどな。
 ギャグの方向性として(前からそうなんだけど)、山上たつひこや田村信の方向に行きたがっているように見える。
 が、13回のような上っ面だけの模倣はかえって冒涜にしか読めないから勘弁してほしい。
 (あと、今時「何が●●じゃー!」「▼▼だっちゅーの!」というツッコミはないだろう…と思うがどうか)
 あと語るべきことは特にない。
 とりあえず個人的には、同人誌でも載せられないようなページ満載のこの本、いかに安めだとはいえ商品価値を感じなかった。
 こんなページの写植貼らされる編集さん、印刷させられる業者さんが心底不憫に感じたのははじめての経験だなあ。南無。

<2001.5.22>

引用:週刊ビッグコミックスピリッツ 特別編集増刊号「相原コージのなにがオモロイの?」 ¥380(税込)
   (2001年5月20日付発行)
文中敬称あったりなかったり

#それにしても相原コージのマンガには必ず「女性器=臭い」というセリフがある。これ結構不快なんだけど(笑)。
 よっぽどこれまでのお相手に恵まれなかったんだろうか。
#そして頼むから金輪際電波ネタだけはやめて欲しい。
 伝説の「電波来てるとんち番長」、今でも夜中に読むと怖いんだ…