「歩くひと」・擬態語のない世界

 今更言うのも恥ずかしいけれど、本当に谷口ジローは絵がうまい。
 デッサンが上手く、絵が緻密な人はすなわち「目がいい」のだけれど、この作品を読んでいると、谷口ジローの五感というのはどこまで鋭いのか・・・と恐れ入るばかりである。

 「歩くひと」(小学館文庫・1998年10月発行・¥429)では、誰もが実感できるような「日常」の風景と生活の光景が、静かに、豊かな筆力で描かれている。地味な小品だが、なかなかの作品だと思う。
 サラリーマンとおぼしき主人公が、新しい町に越してくるシーンからこの作品は始まる。
 その町は、空気が綺麗で、そこそこ美しい川や小さな森があって、野鳥なんかも来るところには来て、そこそこの人工もありそうな、どこにでもあるような町。主人公は妻と二人で(多分子供はいない)一軒家に棲む。前の十人が置き去りにした犬にも、名前を付けてかわいがる。

 ストーリーらしいストーリーはない。
 車はおろか自転車も使わない主人公は、歩く。職場と家の行き帰り、犬の散歩の途中、買い物や所用で出かけた時、悪戯心で小さな路地や木に登って冒険したりして、そこで出会った風景や人・動物の営み。それらが、極端に少ない音声と共に描かれる。
 それだけの、短い作品である。

 緻密な絵というのは、時として息苦しさを感じさせるものだが、ことこの作品に関しては、どんなに描かれたコマにもどこか風穴が開いていて空気が流れており、どの表現を味わっても、呼吸をしていることすら忘れそうな自然な感覚に包まれる。
 季節・場所毎の温度・湿度・特有の匂いまで伝わってくるようだ。読者はその時間違いなく、自分の頭の中から、かつて経験したデータを引き出して、自分の感覚として反芻する。不思議な一時である。

 例えば、下の一コマ。

(P53・第7話「台風のあと」)

 これは、サブタイトルにあるとおり、台風一過の町を主人公が歩くエピソードなのだが、この雲の表現、光の表現は本当に素晴らしい。晴れ始めているが、暗い雲がまだ残っていて、速いスピードで流れていく。まだ落ち着かない大気、大雨の余韻で湿気を孕んだ暖かい空気まで伝わってくるようだ。
 この時、読者はそれぞれに、自分の中の「台風の後の感じ」を追体験しているだろう。

 さて、先程「極端に少ない音声」と言ったが、本当にセリフも少なければ、「音」自体が少ない。それでいて、どのオブジェクトの動きも身近に迫ってきて効果的である。そんな風に思いながら画面を見ていると、あることに気付いた。

 これは第1話のシーン。
 主人公が川で何か跳ねるものを見つけて、しばらく見ていたら、泳ぐ魚を見つける。
 ここで思ったのは、「普通の漫画家だったら、(3)のコマで、魚の近くに『スーッ』という感じで泳ぐ擬態語を挿入するのではないだろうか」ということである。
 だが、筆者はそれをしない。敢えてしない。
 そのかわりに、波紋と、魚の影を描き加えることで、魚のゆったりとした移動を示す。移動を示す流線すらない。しかし読者は、それぞれ自分のイメージした早さで、「魚の泳ぎ」を思い描く。

 文字が寡黙である。
 一見ぎっちり書き込まれた絵だが、「マンガの記号」としての部分が寡黙である。それでいて画面はこれほどまでに雄弁。
 その手法の糸口をたどるとき、やはり上の絵がヒントになった。

 小学校でも学ぶことだが、オノマトペには二つの種類がある。
 (1)のコマの、魚が「ピチャ!」と跳ねる音は「擬声語」。実際に音声として出され、耳で聞こえる音を文字で示したもの。
 (3)のコマに、人によっては入れるであろう「スーッ」という音は、行為・状態を示す「擬態語」。実際に聞こえる音ではない。イライラしている人間の身体から「イライラ」という音が出ているわけではない。そういう違い。

 そこに着目してみてみると、本作では、ごく限られた場面で「擬声語」(鳥のさえずり、水音など)が使用されているが、「擬態語」はほとんど使われていない。
 手近なマンガを手に取ってみると、「ハッ」「ポッ」「クルッ」「ギクッ」など、擬声語の書き文字が少なからず描き入れられているものだ。これがほとんどない画面というのはかなり異質である。
 なのに、オブジェクトの状態や、ちょっとした心理の動きまで、仕草や目線などで手に取るように、いや、擬態語がある場合より遙かに強く伝わる。勿論、画力と鋭い感覚がある人間でなければそんな離れ業は出来ない。
 結局「谷口ジローは凄すぎる」としか語れないのが歯がゆいのだけれど、この小品、淡泊だけれど一読の価値はある。

 以下余談。
 豊かな自然に囲まれた田舎の人間は、自然に対する感性が都会人より上だと思われたり、思ったりしがちだが、案外逆じゃないだろうか。この作品を読んでそう思った。
 田舎は不便だ。私の家を含めて、徒歩では買い物も出勤もお話にならない。勢い、車で移動する生活がメインとなる。(地域住民にしても、バスが1時間1本もないような交通状況では仕方ない側面が大きい)これで庭でもあって、時々手入れでもすればまだいいが、もしかしたら「田舎の賃貸」という生活が、一番季節や自然に関して疎遠なんじゃないだろうかと思う今日この頃。
 たまに歩いてみると、土の臭いやら空気の刺激やら、花の育ち具合やら田んぼの状態やら、色々なものが目鼻に入ってくる。都会暮らしでも、ちょっとした街路樹やプランターの花、他人の家の庭等々で感じるものは少なくない筈だ。
 歩く・・・とまでは行かずとも、たまに中途半端なところで車を止めて、ドアを開けてみるのもいいかもしれない。

 さて、主人公の奥さん。
 ちょっと服装も髪型も地味だけど、優しくて可愛らしくていいキャラクターだ。
 以下のコマは、図書館の帰りにふとガマンできなくなって、学校のプールに忍び込んで泳ぎ、濡れ髪で帰って来た主人公を迎える奥さん・・・というシーンなのだが、

 「泳いできたよ」という怪しすぎる(笑)夫に対し、たった一言

「わあ いいんだあ」

 こんな一言、言えますか?私ゃ言えない(笑)。普通怒るか呆れるかなんだけど、この奥さんはそういうマイナス感情を一切出さず、即座に「わあ いいんだあ」。
 で、主人公がすかさず「こんど 海へ行こう」。
 何かねえ、いいですな。
 単純に「理想の夫婦」とは言えないまでも、「この夫にはこの妻だよなあ」「この妻だからこの夫なのよね」と、しみじみ実感させられる、地味溢れる関係。これもまた、静かで豊かな作品世界を支え、ゆっくりと動かしている。

(2001.3.4)