「ゆとり」はハード
先日、新聞で「ゆとり」を掲げた新教育課程(以下「新カリ」と略)で育った生徒が、従来に較べて明らかに学力の低下が見られる、という調査結果が大きく扱われた。
かつて学校現場で働いていた身としては、「何をいまさら」という感もある結果。入試を行い、採点をして、実際に教壇に立ってみて、総合的に年々歳々学力、そして学習意欲・学習態度に対する意識が下がってきているのは肌で実感していた。
それには様々な理由があって、当の生徒達を責めるのもお門違いと言えば言える。古来より尊重されてきた「読み・書き・算盤」の反復練習という効果的なメソッドが、ここ10年ほどで「暗記偏重・詰め込み教育」という言われなき迫害を受けてしまった。
「ゆとり」の3文字を旗印に、国が率先して「やりたいことだけを感覚的にやって、『学んだ』ことにしましょうねえ」というぬるい教育を、特に初等教育の場で押し進めた。休日を増やし、授業時間を減らし、授業内容を減らして後回し後回しにすることを「ゆとり」だと声高に喧伝した。
国民の人気取りの為だけに、現場の声を無視してここまでやってきた国もアレだが、耳障りのいい言葉に疑問を抱いていない一部の国民もかなりおめでたいものだと思うが、それはそれとして。
とある朝のニュースで、この件について触れていたが、論説委員の柳さんが一言
「先生の教え方にも問題があるんじゃないですか」
それを聞いて切れそうになった、というのは「単にアンタの前職が教師だったからでしょう」と言われそうではあるが、ちょっとこれは、ベテラン論説委員の意見としてはあまりにお粗末過ぎる。
現場では、お上の生ぬるい「ゆとり」教育と現実とのギャップに悩んでいる教師は沢山いるし、現に様々な研究会では始終悲痛な声が上がっている。教育を語る上で欠かせない現場の事情を全く考慮せず、あるいは知ろうともしないのであれば、それは怠慢以外のなにものでもない。
長くなってしまったが、以上は前置き。
考えてみてほしい。
教育の「ゆとり」って何だろう。
心のゆとり。
知識もそうだが、何よりも他者との関わり方、尊重する気持ち、道徳観念を身に付ける、そういったゆとり。
親と子、教師と子供、教師と親が思うことを話し合える、時間のゆとり。
庭や花壇の花木、校舎を飾る絵、飼育している動物など、ほっとできるゆとりの空間の存在。
時代に則して、精選した内容と分量の教材を効果的に使うこと、それもゆとり。
ソフト面の「ゆとり」は様々挙げられる。
だが意外にも、「ハード面のゆとり」についての要望は、あまり保護者から挙がらない。はっきり言えば、
「1クラスは40人」という規格に、あまり疑問を持つ人がいないということ。
一時期だが担任を持った身としては、40人というのは殺人的な量である。
忙しい時間を割いて親御さんにきてもらった面談も、せいぜい1人20分が限界で、歯がゆい思いもした。全員に目を配りたくても、どうしても「問題を起こす生徒」の事後処理に振り回され、成績のいい子を更に伸ばしてやることもままならない。勢い、それなりに学園生活を大過なく送る「普通の生徒」が一番割を食う。
「普通の生徒」。イヤな言葉、使いたくない言葉、あってはならない言葉だと分かっていながら、そんな不公平が生じてしまっていた。
これが半分の20人だったら、いやせめて30人だったら、掃除をしながら色々な生徒と雑談をしたり、もっと違った教室を作れていたかもしれない。負け惜しみであることは承知でそう思う。
いや実際、「30人学級の実現」は、組合等現場の重要要望として、20年以上も前から、毎年毎年文部省に提出されてはいるのだが、無視され続けているだけの話。
入試のある高等学校では、定員増減は計画的に行われ、承認を得て行うことになるのだが、義務教育の小・中学校では、児童数減少に伴って「教室が余って余って仕方がない学校(特にかつての市街地)」も数多い。
けれども、「空き教室を地域で有効に使いましょう」という提案は出ても、「クラスの人数を半分にして、全部の教室を使いましょう」とはならない現実。
理由は簡単で、国・自治体が「教師の数を増やしたくない」から。
要するに、「人件費の出し渋り」。これに尽きている。
増やしたくないどころか、多くの自治体で新規採用教諭は減少傾向にある。試験は狭き門となり、意欲は十分なのにふるい落とされた若者は、「講師」の待遇で研鑽を積むパターンが多い。講師とはいえ、持ち時間数はあまり教諭と変わらないハードな仕事を強いられる。それなのに一年限りの、保証の低い扱いを受けているのである。
そんなわけで、学校現場の年齢比率が少々いびつになってきている。
50代位の方には結構ずるい人も(中には)いて、年齢を理由にパソコンなどのデータ作業や運動部の顧問、生徒指導の分掌、行事の旗振り役などを「お若い先生」に押しつけることも少なくない。ことに20代・30代の若い男性教員などは貧乏くじを引きまくる日々が多いのも現実。
週休二日制になればなったで、授業のシフトや授業計画の練り直し、教材の検討し直し、休日のスポーツ少年団や部活動の運営等々、休日が増えることによって増える負担もある。
保護者にしても、できれば担任や担当教員にも、ゆとりのない心情で教壇に立たれるよりは、余裕のある気持ちで仕事をしているに越したことはないと思う。
ソフト面でのゆとりはもちろん必要ですが、その前に「ハードの面であまりにもゆとりがない」「耳障りのいいことだけ言って、その実予算を渋っているだけの」日本の現状、どう思われますか?
私自身は本当に駄目な教師でしたが、それでも「少しでも『知』や言葉の楽しさと奥深さを学び、知ってもらいたい」「単元一つの中で、一つでも得るものがあってほしい」と思いながら、無力ながらも力を注ぎました。まして他のまっとうな教師達は、日夜プライベートと健康を削りつつ頑張っています。
もし、PTAの集まり、仲間内などで教育について考える機会がおありでしたら、一度「クラス定員はいつまでも40人でいいのか?」という話題をまな板に挙げてみてはいかがでしょうか。
長年に渡る教師の訴えは毎年握りつぶされています。可能性があるとすれば、絶対多数である保護者の方からの一丸の訴えしかないでしょう。
注:学科・クラスをまたいで複数の教師が1集団に教える「チーム・ティーチング」や、1クラスを2人の教師が担当するシステムなど、学校や学年独自で様々な試みが行われている現場も数多いことを付記しておきます。
それさえ言っておけば、いっぱしの評論家・有識者気取りになれる言葉というのが幾つかある。
一つは「『現代社会』の枕に『歪んだ』と付け加える」、
また、「『高度成長期』は『技術・経済発展を追い求めて人の心を置き去りにした時代』として扱う」とか。
で、もっとも簡単かつ誰にでも共感してもらえそうなのが、
「公務員や教師のことは、とにかく叩く」
これに尽きるようで。
他にもよく罵声を浴びる公務員としては警察官があるが、そちらは相次ぐ不祥事の中でも、「24時」系の番組で「おまわりさんはご苦労だなあ」と上手にアピールしているのでそうでもなかったりするが、ともあれことほど左様に教員は嫌われ者だ。
先日も、とある研修を受けたら、「人の話を聞かない」「偉そう」なものの代表としていちいち「学校の先生」がやり玉に挙げられ、かつて現場にいて、そういう人は一部だと知っている私としては不快な思いをした。
あの時ほど「あとからジワジワ腹が立ってくる」自分の体質に感謝したことはない。
いや、「嫌わないで」などとは言わない。プライド(人間誰だってこんな言葉はいいたくないはず)はもとより、どの現場にも多少は「世間知らず」「偉そう」な教師はいる。
が、大部分の教師は残業手当も一切出ず、12時間労働当たり前の中で、家庭生活やプライベートを大いに犠牲にしながらも、利他的な気持ちで骨身を削っている(ちなみに、部活などで休日出勤しても出るのはラーメン一杯喰える程度(チャーシューメンは無理)のお手当であることを付記しておく。)日常生活。現在の「敵意40%でデフォルト」な状況に疑問を感じキーを打たせていただく。
というか、話を聞いて貰いたいときにこの口調も「偉そう」と言われそうなので、以下は敬語に切り替えさせていただく。
20年くらい前までは、保護者の大部分は学校や教師を信用していました。
家に帰って、教師に叱られたり罰を受けたりしたことを愚痴ったり、噂程度の悪口を言っても、親はまず子供にすぐ同調するのでなく、「教師が叱るだけのことを子供もしたのだ」ということを反復して指導し反省に導いたり、下世話な悪口は窘めたりしたもので、子供を慰めるのはその後だったものです。
この順番、今になってみればかなり重要でした。(子供心には、「私よりもセンセイの肩を持つの?」と不満ではありましたが)
親の口から「先生はお前のことを心配なさって」とか「先生のおっしゃることには耳を傾けなさい」という言葉もよく出たものです。イヤ別に、持ち上げて欲しいわけではないけれど、今、教師の動作に「なさる」「おっしゃる」なんて尊敬語を付けてくれる人、ほとんど皆無でしょう。だって尊敬されてないもんね。(別にいいんです、尊敬されるほど有益な人間だなんて自負してません。最低限の常識を持って、教室を維持するのに必要な指示を聞いてくれて、学校を通じて成長してくれればそれでいいんです。)
今や話は全く逆で、指導すれば「うちの子の言い分は聞いたのですか」「どうしてうちの子だけが」と逆上なさって、職員室にクレームを付けにねじりこんでくる保護者の方は少なくありません。
しかも、子供が喫煙だの飲酒だの万引きだのカンニングだのカツアゲだので現行犯補導されている状況でも平気でそういうことをおっしゃる親の愛は日本海溝より深いのだなあと思わせられます。
そこまでいかずとも、最初の段階を省いて「○○ちゃん、可哀想だったわね」とすぐに子供を慰めてしまう親御さんが相当多いようです。「友達みたいな親子」ってそういうものなのでしょうか。親子の理想像は十人十色でありまして、実現にむけて邁進なさるのはご自由ですが、「気が付いたら、自分の『親』はどこにも存在しなかった」とならぬように留意されたいものです。
全家庭で「教師などというつまらない存在の指示は聞かずともよい」と教育されているとは思いたくないのですが、事態がここまで来ると、やはり「保護者の方の『学校・教師に対する不信感』が子供にも伝わっている」と思わざるを得ません。
それが、学校に通わせてみて抱いたものならともかく、どうも「自分が学生時代に味わった、学校・教師への反感」をそのまま子供に刷り込んでいる節も、なくはないように感じます。
誰にだって、心から好きだった教師がいれば、大人になってみても許せない教師がいます。一人として尊敬できる大人などいなかった学生生活だった人もいるでしょう。
でも、子供の気持ちのキャンバスはまだまだ書き込む余地のあるもの、ましてこれから学校(あるいはさらに上級の学校)に行こうという状態なら、まさに白紙の状態。
そこに、勝手に親のトラウマを押しつけて、心にバリアを設置するのはヤメにしませんか。一言で言えば、それは「偏見」です。
このバリアが強いと、何らかの場面で叱られても「相手の攻撃」としか認識できず、他人を「敵か味方か」の尺度でしか判断できない、くだらない人間に育ってしまいます。
この点は、親御さんのみならず、教師も肝に銘じなければならないこと。
自分がそんな矮小な人間ではないというプライドがあるのならば、自分の経験則ばかりを押しつけないこと、大事だと思います。自分のコピーを作ることが教育の目的ではありません。
もちろん、他者や社会との間で硬く守らなければならない「ルール」を教える時には、「これは必要なことだ」と自信を持って強く教えたいものです。
そうそう、発言を穏便にし、偏った考え方と受け取られない簡単な方法を一つ。
とにかく「○○は××」と一般化して決めつけるのではなく、「○○の中には××なものもいる」「○○の一部は××ですが」という風に、「例外」を設けて喋ること。簡単ですが、実は思わぬ所から反感を向けられないための最高の自衛手段だったりします。
なるほど、研修の講師も「学校の先生にはとかく他人の話を聞かない方が多いようで」と言ってくれれば、私も軽く聞き流せたんですな。話をする相手には、どんな職業・立場の人がいるかわからないですから、これは有効なテクニックです。講師の先生の不愉快な言動のおかげで、いいことを学びました。心から御礼を言いたいです(笑)。いやマジで。