不便?かまど生活

 先日実家の母と久々に台所に立ちながら、「プロジェクトX」の電気釜誕生秘話の話をしていた。それが出来るまでは、一日2〜3回、かまどに引っ付いて火を見張り、火加減を調節してご飯を炊いていたのだから、母の若い頃はさぞ大変だったろう・・・と話してみたら、母の返事はこともなげだった。
 私の母は農家の出身で、子どもの頃から、一緒に博物館に行くと、農具や民具の使い方を嬉々として教えてくれた。筵やゴザの織り方、縄のない方など、子どもの頃にした家の仕事も良く語って聴かせてくれたのだが、今回もそんな感じで、当時の「かまど生活」を話してくれた。
 地域によって色々差はあるだろうが、母の家でメインのかまど燃料はモミガラだった。これは何と言っても農家だから、秋以降は沢山ある。またはオガクズを使っていたそうだが、これも近所の製材所に貰いに行き、無料で分けて貰ったそうだ。
 これらの燃料を使うとかまどの火の持ちが良く、米を炊いた後のおき火で、煮物や汁物の一つは軽く作れたという。(ゆっくり煮たり焼いたりする料理ではおき火は実に有効)火をくべる部分でも芋やトウモロコシを焼くことが出来るので、子ども達の大いなる楽しみだったらしい。
 勿論、火を見張っていなければならない束縛はあるが、何だか結構楽しそうだ。
 当時はどこでも兄弟が多く、母の家では女の子が多かったので、台所仕事もうまく役割分担してやっていたのかも知れない。
 あらためて、ほんの50年前までは「産業廃棄物」や「ゴミ」のほとんどない世界だったのだと思い知らされた。
 米を脱穀した後のモミガラや藁は燃料になり、生ゴミは堆肥になる。化学含有物がないから、紙ゴミなどを燃やしてもダイオキシンなど発生しない。
 排泄物も肥料だ。幼い頃祖母についていって畑に行き、もよおすと「こやしになるから畑でしていいよ」と言われたものだ(笑)。(ちなみに、現代人の排泄物には体内に蓄積されたダイオキシンや有害物質が含まれているため、もはや肥料にもならない代物だという・・・)
 勿論、いいことばかりではなかったとは思うが、昔の(農村)生活って、合理的で何だかイイよなー・・・と感じた。何よりその体験を語る母の顔が何だか楽しそうだったから。
(注:排泄物利用の堆肥は、同時に伝染病や寄生虫等の媒介となる危険も孕んでおり、必ずしも全肯定できるものではありませんが、合理性に着目して取り上げさせていただきました、)
 中国や日本、いや世界各地にには「竈の神」に対する民間信仰がある。山形でも「カマ神さま」として崇められている「神の面」がある。これは言うまでもなく、神の姿を通じて「火」の恐ろしさ、有り難さを絶えず再確認する風俗。
 現在でもお札などで「火伏せ」をする風習は途絶えていないが、その有り難さに対する意識、どれほど持ち得ているだろうか?
 ところで私、これまでキャンプなどで飯盒で炊いたご飯は食べたことがあるが、竈で炊いたご飯は未体験である。
 竈で炊き、保温はお櫃・・・というのが、ご飯をもっとも美味しくいただく方法だそうで、絶えず加熱している現在の「保温ジャー」機能は刻一刻米を不味くしているらしい。旅館で食べるお櫃のご飯が妙に美味しく感じるのはその為か?
 毎食竈炊きのご飯を食べていた時代って贅沢かも・・・とつい思ってしまうのは、いくら何でも現代人の傲慢だと知りつつも、憧れてしまう。
(2001.3.30)