ないしょの山月記

 毎年、各教科書会社から「来年度の採用見当見本」が送られてくる。
 かつての定番、森鴎外の「舞姫」を外した出版社はあっても、「山月記」は大概の教科書に入っているようだ。
 難易度・課程に関わらず、日本中の多くの学校で、二年次あたりに「山月記」の授業を行っていることに(もちろん、年度始めに教材の取捨選択・流れの構成を行うので一概には言えないけれど)なる。
 私は、中学生の時に出会って以来、中島敦は心の中で一番を占め続ける作家であり、「山月記」もこよなく愛している。
 だが、「山月記」の授業はなかなかに辛い。事実そう思う国語教師も数多いようだ。
 「瑯西の李徴は博学才穎・・・」と、主人公の出自から語りはじめ、いかにも中国小説なスタイルを持つこの作品。多くの生徒にとっては、「漢字や、難しい語句や注釈ばかりの、しちメンド臭そうな小説」と写るだろう。また、これに解説を加えながら最後まで進めて行くわけだが、週2回の現代文の授業時数だから、3週間はゆうにかかる。1ヶ月近く、ずーーっと「山月記」。これはなかなか辛い。これほど続くと、どうしたって「飽き」が来るのだ。
 なまじ好きな作品だったりすると、これまたスタンスが難しかったりもする。あまり解釈を入れすぎると、「自分の考えで読みとり、感動する」妨げにもなりそうだし、自分の感動を押しつけるように聞こえたら、相手はかえって引くだろう。「指導書」という便利なものがあるにはあるが、「人間存在の不条理性を・・・」なんて文言、噛み砕かずに板書などできない。

 とりあえず、上記の理由で読んだことのある方は多いとは思うが、あらすじを書いてみよう。

 官吏・袁参(本当は「サン」の字は「にんべん」に「参」の旧字体なのだが、これで代用させていただく。)は道を急ぎ、「夜は虎が出るから」との忠告を押し切って、とある山に入った。果たして人食い虎に遭遇してしまうが、その虎は、袁参の姿を認めると、突然人語を語りだした。驚く袁参。
 その虎は、袁参の旧知である李徴と自称し、さらに袁参を呆然とさせる。李徴はここに至った経緯を語りだした。

 李徴は、郷里でも一番の秀才で、官吏登用試験への合格も、出世も誰よりも先駆けていた。
 彼は、詩人を志し、詩で生活していきたかったのだが上手く行かず、高いプライド故に、自分より能力が劣る者と一緒に官吏の職に甘んずることにも苦痛を感じて生きていた。公職を辞めて詩作に没頭するも芽が出ず、ある日「自分を呼ぶような声」に導かれて狂奔。走り出し、駆けて、駆け抜けて、気が付いたときには虎の姿に変わっていた。そして今では、獲物を認めると自我が放り出されて人や獣を襲い、食らった後に我に返っては嘆く、そんな日々なのだという。
 日々人から獣に近づく生活の中で、李徴はこの理不尽な変身の理由を「尊大な羞恥心と臆病な自尊心」のせいだと語る。そして、まだ人語を操れるうちに、一つでも詩を伝録したいと切望。袁参はそれにこたえる。

 最後に、「月に吠える自分の姿、その獣の浅ましさを目に焼き付け、人間・李徴は死んだと思ってくれ。そして、ここには二度と来ないで欲しい」と告げ、明けかかった空の白い月に吠え、そのまま姿を消す李徴。冴え冴えと美しいラストシーンが印象的である。

 唐代の小説「李徴(また「人虎伝」とも)」のプロットを下敷きに、中島敦が独自の解釈を加えて再構築した物語。

  で、基本通り、李徴の語る「尊大な羞恥心と臆病な自尊心」という、形容矛盾を含んだファクターをキーワードにして、物語を追ったわけである。
 1年目に四苦八苦してこの授業を終えた。だが、次の年にまたこれを扱うことになり、今ひとつ上手く説明できたと思えない「尊大な羞恥心と臆病な自尊心」について、どう料理すべきか考えた。
 そして、全くの私見に到達した。
 これは本当に、自分の貧しい体験に基づいた勝手な解釈であり、とても現場におろせるシロモノではない。
 というわけで、以下は全て、「駄文書き」としての意見であり、思い入れの産物の駄文であると了解されたい。

1.「尊大な羞恥心と臆病な自尊心」

 これについては、作内でも李徴自らが具体的に過去を振り返っている。
 いわく、
・自分は才能があると信じる(信じたい)余りに、「才能がないけど頑張ろう」と努力している連中と一緒に詩作を磨くことができなかった。
・かといって、「自分の才能は、実は大したことはない」ことが露呈するのも怖くて、才能ある人達とも交わることができなかった。
 そして、李徴の詩を聞いた袁参も、「確かに出来はいいけれど、一流と言うには何かが足りない」と感じるのである。

 ここで生まれがちな、物語の深みを台無しにする道徳的解釈は、
「結局、李徴は努力しなかったからダメなんだ」
 という安直なものである。
 努力・研鑽がなかったから、詩を聞いても「一流には何か欠けてる」のだ、というところに、ややもすれば行きがちなのである。

 その因果応報譚的な考え方は確かに、原典の「李徴」の読みとしてなら及第であろう。
 だが、中島敦が再構築した「山月記」世界の解釈としては、非常に食い足りないものを感じるのである。
 私は(しつこいようだが、あくまで私見である)、「尊大な羞恥心と臆病な自尊心」とは、取りも直さず、全ての表現者が持つ「」の部分であり、かつ切り離しえないものだと考える。

( ここで私が定義する「表現者」とは、メディアに関わらず、「自分の内面にどうしようもなく沸き上がるものがあり、それに訴求され、他者に向けて表現して送り出す全ての人間」を考えている。プロ・アマの別、文章・絵・身体表現・音楽などを問わない「送り手」としての定義である。
 最初に、WEB底辺の駄文書きにすぎない私が、この勝手な定義に基づいて「表現者」を自称することを、どうかご容赦いただきたい。)

 自分で構築した作品の、どこか一部でもいい(絵画の一部分の構図とか、歌の1フレーズとか、文章のつなぎの端とか、WEBページのレイアウトとか)。予想以上にうまく仕上がって、「これはちょっと、自分にしかできないかも?」「自分って才能あるかも?」と、思ったことはありませんか?

 他人の優れた作品を見て、彼我の差に愕然とし、打ちひしがれ、「俺って才能ないかも」「努力しても、所詮、圧倒的な才能には太刀打ちできないかも」と、悶々としたことはありませんか?

 しかし、それでもなお、自分の中に、外に向かって出ていこうとして中から激しく扉を叩く、蠕動する何かがありませんか?

 その両方に心当たりのある方、その人は実力・実績に関わらず「表現者」あるいは「送り手」なのだと、私は思う。
「自分ってダメかも」「いや才能あるかも」「やっぱりダメかも」・・・それが入り交じりながらも、どうしようもなく外に出さずにはいられず、そうやって少しずつ、自分が求めるような形に近づいていく。それが表現者が持って生まれた、どうしようもない「業」なのだと考える。
 才能を信じている、信じたい。磨きたい、競いたい、その中に、一抹の不安。
 時には、自分のしてきたことが否定されるような、激しい無力感を味わうこともある。
 それら全てを包んだ、愚かしくも逃げられないもの。
 それが、李徴の表現では「尊大な羞恥心と臆病な自尊心」となるのかもしれない、と私は考えたのである。

 それは「努力」という万人向けの美点とは関わりなく存在するものであり、
 「表現者」というアイデンティティを持ち続ける李徴にとっては、「李徴が李徴であるために」必要不可欠、かつ不可避なものであり、
 「虎」という、中華世界の実在動物で最も激しく、誇り高い動物に変化するのに相応しいものである。
 そう思うのである。
 「努力が足りない」などという凡夫の理屈で、百獣の王には到達できない、とも思う。

 この「表現への業」についての事項は、全てが私の独断ではない。
 原典「李徴」と比較して再構築の方法を見ると、そこから分かるのだが、


1、原典では、妻子のことを詩の伝録の前に依頼しているが、山月記では順番が逆である。そしてわざわざ、「本来はこの(妻子の)ことを先にお願いすべきなのだ、俺が人間だったなら。妻子よりも、己のくだらぬ詩業を気にかけるような男だから、獣に身を落とすのだ」と自嘲のセリフを発している。
2、原典では、心当たりについて「上司の妻と不倫をした挙げ句、殺して、家に火を付けて逃げたので、その因果応報」という要因を挙げている。これは典型的な「因果応報譚」の性格を強める記述であるが、「山月記」では一言も触れられていない。

 この2点からも、「詩人としての業」を強調する意図自体は明らかと言えよう。

 代表作「李陵」において、更に中島敦は「創作者の業」を分かりやすく記述している。
 宮刑にあい、幽閉されて「史記」を執筆する司馬遷の、こんなシーンがある。
 中国史上初の正史(国家事業として公式に残す歴史書)「史記」を書くに当たっては、原則的に現在の王朝である後漢・また前漢の国家・偉人の美点を出来るだけ記さなければいけない。しかし、前漢の高祖・劉邦の歴史を先に書き進めなければと思いつつ、ライバル・項羽の魅力的なキャラクターや、躍動感ある合戦部分に触れようものなら、意に反して筆が進んで進んで仕方がない。
 ・・・という場面である。
 お上の制作意図に反するシーンに力を入れては、検閲削除か、最悪は死罪まであるというのに、この心境を「何かが司馬遷をして書かせている」と表現する司馬遷、そして中島敦。
 自分が病で長く生きられない中島敦の境遇を思うと、「山月記」「李陵」だけでなく、全ての作品について「何かに書かされている」「表現することで生き急いでいる」エネルギーのほとばしりを感じてしまう。これも、過ぎた思い入れと一笑に付されるかもしれないが・・・

2.天衣無縫ということ

 「李徴には少なくとも人より優れた詩才があったのだから、努力を怠ったのがいけないのではないか。結局、才能があっても、努力しなければ光らないのだから。」

 この感想は、人の道としては、道徳的に正しい。
 だが、こと表現とか芸術とかいうヤクザな道では、その正論が普遍的であるとは限らないのだ。
 ほんの僅か(ここのところ誤解しないでいただきたい、本当に天文学的な確率で)だが、平凡な表現者の幾多の努力と経験の積み重ねを、助走も付けずに飛び越していく「天才」という存在がある。
 とてつもなく残酷な存在である。
 存在自体は残酷であるが、その「作りしもの」は、人々に限りない幸福を与えたりするからさらにやっかいだ。

 「天衣無縫」という言葉がある。
 最近では「天真爛漫で純真な人柄」を表現する機会の方が多いが、もともとは「天上界の人間が着る衣は、天井の超絶技術で作られており、どう探しても縫い目一つなかった」という「霊怪録」の記述から生まれた言葉で、転じて「技巧のあとを見せず、自然にできあがっていて、しかも完璧で美しいこと」を指すようになった。
 天才の仕事とはまさに「天衣無縫」なものであり、そう簡単に「天才」をいう言葉を使う物ではないだろう、と思うのだが、それはそれとして。
 この言葉で連想するのは、(平凡な例で申し訳ないのだが)モーツァルトなのである。
 昔、ピアノを習っていた頃、「モーツァルトを弾くときにはもっと、モーツァルトらしく軽やかに、もっと軽く。楽譜をそのまま叩いただけでは意味がないですよ」と言われ、小学生の身にはいささか難しい注文ではあったのだが、その後だんだんと、モーツァルトの作品が持つ、「先天的な軽さ」が分かってきた(ような気になった)。
 天才児モーツァルトの作曲は、即興が主だったと言われている。
 確かに、どの曲を聴いても、「楽譜を目の前にピアノに座って、頭抱えてああでもないこうでもないと、音符を書いたり消したり」という雰囲気が、微塵も漂っていない。それでいて、音楽が全身を絹のように包み込み、言いようのない快楽を与えてくれる。まさに天衣無縫。困ったくらいに「完璧で美しい」のである。
 ことに交響曲40番を聞くと、この華麗なオーケストレーションも、見事なコーダも、「こんなんできちゃいました」という感じで生み出されたのだろうな・・・と思わずにはいられない(もちろん私見)。

 で、このような真の天才がいた場合、同時代の、同じメディアの表現者は本当に不運だとしか言いようがないだろう、ということなんである。
 映画「アマデウス」のサリエリなどは、まさにその体現者だったと思う。
 憧れ、羨み、失望、自信喪失。
 産みだしたもののかけらに、一筋の自信を見出すことすら、状況によっては出来ないかもしれない。
 作品の魅力・存在意義とは全く別の次元で、そういった天才というのがごく稀に存在するのである。
 (そういう天才を愛すればこそ、やたらに「天才」という言葉で他人をおだてたり、自分を慰める材料にすることはよろしくない・・・と私は思うのだが。)

 話を李徴に戻そう。
 先に述べた天才が稀にしかいない、と仮定した場合、殆どの「才能ある表現者」は「秀才」までしか行けないのだろう。
 そして、この唐という時代には、李白・杜甫というモーツァルト級の詩人がいたことも考えあわせたい。
 ここで、フィクションで年号を考現するのはナンセンスとは思うのだが、ちょっと李徴が生きた年代を考えてみた。

李徴:「天寶10年(751)に科挙合格」
    (「人虎伝」では「天寶15年」(756)の記述あり。)
杜甫:712〜770
李白:712〜762

 というわけで、ちょっと面白い結果になった。
 科挙合格が大体20才前後と仮定して、若き李徴が詩作に励んでいた頃は、まさに李白・杜甫という二大巨人の全盛期に当たるということになる。詩作・文章が盛んな時代であり、同時に詩人には不幸な時代でもあったというわけだ。背景を考える上で、ちょっと興味深いかもしれない。

 最後になるが、結局中島敦が李徴の「業」を見つめる目は、否定するでもなく、断罪するでもなく、かといって単に優しいわけでもない。作者として李徴の存在を射抜きつつ、その視線がゆっくりと「表現者」である自分自身に回帰している。そんな気がするのである。

 長くなってしまったが、私的な解釈では、「山月記」とは、詩人・李徴の秀才のジレンマと表現者の業の物語だったのだ、と思っている。これほどまでに自分の内心に引きつけた考えはある意味危険であり、とても公共の場で言えるものではないが、とりあえず「努力が一番」という道徳的な読みに着地することだけは避けたい、と強く思う。
 以上、「山月記」の私見でした。