シミュレーション・ギャップ

 先日、某家具店のCMを見ていてちょっと、いや大いに気になったのだが。
 その家具店では、部屋の模様替えをする際に、様々な家具やカーテンを色々並べ替えたり、色を換えたりして擬似的にイメージを掴むことの出来るスペースを設けていて、それが売りらしい。それはいい。そのスペースの名前が「シミュレーションルーム」だという。それもいい。
 問題は、画面には「シミュレーションルーム」と出ているのに、CMキャプションを読む人が堂々と「シュミレーション」と発音していたことだ。

 常々不思議に思っていたのだが、何で日本人の大半が「シミュレーション」を「シュミレーション」と発音する(もしくは誤って覚えてしまった)のだろうか?(「シムシティ」「シムアース」などのゲーム名を思い出せれば明かな間違いだと分かると思うけど・・・)
 しかも、ソレがCMとしてオンエアされてしまったということは、制作現場で誰もダメ出しをしなかったということだ。この誤慣用、知らないうちに相当進行してしまったのだろうか?

 もちろん、言葉は生き物だ。慣用や誤用を繰り返して日本語の語彙は今ある形になったし、これからも変化を繰り返してその時々の日本語になっていく。今当たり前に使っている言葉だって、実は誤用が定着してできたものも多い。
 例えば「新しい」。これを読めない人はいないと思う。
 では「新」を訓読みすれば?・・・そう、「あらた」だ。これを変に思ったことはないだろうか?
 恐らく、由来を知るまでは「ない」だろう。それほどに「新しい」=「あたらしい」は日本に定着している。

 ちょっと整理してみよう。
 古語の形容詞には「あらたし」と「あたらし」の両方がある。
 
・あらたし(新し)
新しい。古いものから新しい状態へ改まるさま。
・あたらし(惜し)
・あまり素晴らしいので、その価値に相応しい扱いをしないでおくのは勿体ない、残念だ。
・相応しく扱わないと勿体ないほど素晴らしい。
(今でも、「あたら若い命を・・・」という感じの用法が残っている)

 結果から言うと、平安時代頃にこの二つは混同して用いられるようになり、近代化の中でいつしか「あらたし」が使われなくなり今に至る。(私見だが、「新しい」と送りがなが付かないのは、元来「あらたし」であった名残ではないだろうか?)
 まあ、混同したのが1000年も前のことだから、今更「あたらしい」をインチキ呼ばわりするつもりはない。言葉は移りゆくものであり、淘汰は勝ち負けではない。
 この手の流れを列挙すればまだまだ例に事欠かない。

 しかし、「シュミレーション」は何か違うのではないだろうか。
 元来が日本語である「新しい」に対して、「シミュレーション」はれっきとした英語だ。今や大概の日本人の間で意味の通じる外来語だ。
 いわゆる「和製英語」を英語として使おうとすると全く意味が通じないというのも良くある話。
 例えば、「ホームページ」は「ブラウザを立ち上げたときに一番最初に表示されるページ」。この「ホーム」は「起点・出発点」の意味合いしかなく、日本人がイメージする「家の」という意味は含んでいない。従って、「my homepage」と言った場合に、英語的には「私の作ったWEBサイト」という意味は全くくみ取ってはもらえないことになる。
 また、スペリングをそのままベタ読みすることによる誤りも多い。
 「爆撃手・爆撃機」を意味する「bomber」の正しい読みは「ボマー」で、「Xボンバー」も「アックスボンバー」も誤りだし、台所の「オーブン」も本当の発音は「アヴン」。
 だが、そういったものとは次元の違う間違いを、件の読み違えには感じる。
 だって、表音文字たるカタカナの読み違えだ。画面にも台本にも「シミュレーション」と書いてあるのに「シュミレーション」と読んでしまうのは・・・
 はっきり言えば、年配の人が「パーティー」と言えず「パーテー」と言ってしまったり、担当大臣が「IT」を「アイテー」としか発音できないような格好悪さ。それをひしひしと感じてしまうのである。
 でもどうなんだろ。10年くらいたったら「シュミレーション」は平然と市民権を得てしまうのだろうか。いや、もう既に・・・