*矢口高雄・耳目というセンス*

 中央公論社で数年前に刊行された「マンガ日本の古典(現在文庫版が刊行中)」で、矢口高雄は「奥の細道」を担当し、冴えた筆を振るった。その著者後書きの中で、このような内容を語っている。

 平泉の「夏草や 兵どもが 夢の跡」の段になって、僕は困ってしまった。芭蕉が詠んだ「夏草」は、はたしてどの植物なのだろう・・・

 このくだりを読んだ瞬間、もう敬服するしかなかった。
 「マタギ」「釣りキチ三平」等の名作をものし、血の通った自然を書かせたら右に出る者のない巨匠の、なんという真摯さ、妥協を許さない作画への姿勢・・・
 そうして描かれた「奥の細道」の「平泉」の背景は、見事な「トーホグの夏草」であり、月山は清々しい雪の霊峰であり、山寺はジリジリとした山形の夏だった。
 矢口高雄は秋田県の山村の出身。隣の県に棲む私は、やはり植生などが似通ったところに住んでいるせいだろうか、氏の描く自然が本当に血肉の通った、どうしようもなく懐かしいものに感じられてならないのである。

 で、漫画の画面としてみた場合の、自然・背景の扱い方について見てみたいと思う。

 漫画の画面を構成する場合に、背景が欠くべからざる要素であることは言うまでもない。しかし、お手元の漫画を手にとって見られると分かると思うが、必ずしも全てのコマに背景が書かれているわけではない。あるコマではキャラのアップのみであったり、あるコマでは集中線やトーンを使用しての「効果」の表現の方に重きが置かれる。
 むしろ現在では、背景付きのコマが多いと「画面がうるさい」とダメ出しを食らう場合も多いのではないだろうか。
 要するに、「背景」とは、現在の場面はどこなのか、主人公の立ち位置、他のオブジェクトとの配置関係はどうなのか・・・を表すものであり、要所要所で示されてさえいれば役目を十分果たす、とも言える。

 ところが、「釣りキチ三平」などを見ると、矢口作品では「背景付きコマ」がかなり多い。
 自然、画面全体の線の量がかなり多い・・・にも関わらず、不思議にちっとも五月蝿くない。
 例えば、釣り漫画の背景なら、川と岸辺、周辺の草でも添えれば十分なところを、矢口は空を書き、かなりの頻度で山を描く。その「山」が醸し出す遠近感のダイナミクスと開放感は、言い表せない快感を読者にもたらすのである。

 で、今度は描線について考えてみたい。ちょっと対照実験(というほど大袈裟ではないけれど)。

矢口高雄「釣りキチ三平1」
(講談社文庫版p326
 「少年の夏」より)

水木しげる「神秘家列伝・役小角」
(角川書店「怪」9号・p133)

白土三平「ワタリ4」
(小学館文庫版p342)

<A>
 この絵は実は見開きページで、ここに挙げたのは右下4分の1ほどをトリミングしたもの。そのバランスからして凄い。
 で、見ていただいてお分かりのように、キャラクターと背景の描線が、太さ・濃度共に同じなのである。
 しかも、これだけ濃密な背景なのに、キャラクターとの間をホワイトで区切ったり、ぼかしたりしていないために、強烈な一体感がある。
 後ろの樹の描線は簡略化されているが、トーンを貼り分け、広葉樹とスギ状の針葉樹の二種類があるのが分かる。草の描線も力強い。

<B>
 人物の描線より、背景(いや、ここまで来ると「背景」と呼ぶのもたばかられる)の描線の濃密さが高い。これが水木しげるのコマ構成の特徴である。
 この画像をスキャン・ズームアップしてみて、木の肌の異様な書き込み、スミ一色で表現された樹のうねり、下草の葉脈の細かさには唸らされた。
 その書き込みが、背景のレベルに留まらぬ霊的な空気を醸し出している。

<C>
 さすが達者な線である。草は草、樹は樹ときっちり表現されているが、よく見ると要素それぞれは簡略化された線で、様式・記号の役割が強い。特にこだわりは感じられず、それぞれが表現の役割を果たしており、濃度の重点は人物に置かれている。バランスとしては最も標準的とも言えよう。
 この、要素として研ぎ澄まされた描線で描かれる荒野は、それはそれで痺れる魅力を放つ。

 この比較は、誰がどうだから優れている、とか、そういうことを述べるためのことではない。
 ただ、描線というものを通じて、作家の人間と世界の捉え方、関わり方をかいま見ることが出来るような気がして、私としてはとても面白いと思う。
 いずれにしろ、対象物をよーーーーく見なければ、この描線の域には達することはとうてい不可能である、ことは言うまでもない。
 先の「夏草」発言にしろ、またカラー原稿での風景や魚の彩色の素晴らしさを見るに付け、矢口高雄という人は、いい目をしていて、その上で色々なものをよく観察しているのだな・・・と感心せざるを得ないのである。

 最後にもう一つだけ。

「釣りキチ三平1」
(講談社文庫版p308
 「驟雨のオトリアユ」より)

 これは、釣りの最中にいきなり雷を伴った驟雨に襲われるシーン。
 私が感動したのは、赤丸で示した「バチバチバチ」という音。これは、驟雨が岩や地面を激しく叩く音で、確かに夕立に振りこめられると、モノや体にあたる雨音は激しく「バチバチ」だ。夕立だ!と気づくのは「ザザー」より「バチバチ」が先だ。
 「ザザー」という雨音は誰でも表現できるが、誰が「バチバチ」という音(誰もが聞いてはいるのだが)を擬音にして、書き文字にして書き加えることができるだろうか?
 「気づき」の問題といえばそれまでだが、やはり並々ならぬ感覚の鋭さを感じずにはいられない。

 釣りキチの目と耳がいいのは当たり前・・・と言われればそれまでなのだが、いわゆる「漫画家のセンス」以前の、五感としての「センス」、その底力をこれほど感じさせる作家はそうはいないのではないか、と私は確信するのである。

(2000.9.7)