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漫画の中の外国語

 

 「外国語を話す」様子を、漫画の中でどう表現するか?
 その方法については、従来から色々試されてきた。
 「聞き慣れない言葉を話す」というシチュエーションを表現するには、会話主を外人ぽく描いただけでは不十分なのである。(もっとも、「一見して外国人」を描くには、骨格を意識した知識と画力が必要である。「とりあえず金髪」は、画力の乏しい者にも有効な手段であるが・・・)
 普通のフキダシ表記では、「流暢な日本語を話す外国人」と見分けが付かない。
 「外国語」を記号として成立させるために取られる手段は、主に次の通りである。

1.カタカナ表記
  (例)「ワタシハさんふらんしすこカラキマシタ。」

 最近あまり用いられない手法。読みにくいのが理由だろう。
 また、カタコト日本語とも混同するおそれがあるが、周囲の人間が、外国語にあわてる描写があれば有効だろう。
 この手の表記は他にテレパシーや機械語にも応用される。
 例のように、本来カタカナで表記するところをひらがなに置換するのが特徴。

2.横書き表示

 もっともよく用いられる。日本語(母国語)は通常の縦フキダシで、外国語は横書きのフキダシで表現する。
 会話が入り組むと順序が分かりにくくなることもあるが、効果的であり広く認識されている。

3.外国語をそのまま書く
 (例)I came from san-francisco.(私はサンフランシスコから来ました) 

 たいがいは和文訳を添えて書く。
 本格的な印象を与えるが、作者側(はたまた担当?)に語学力が要求される。
 訳の分だけスペースを要し、フキダシが窮屈になるというデメリットがある。

 大体、このように処理され、読む方も周知の文法として読み進めて行くわけである。

 ところが、語学力を全く要せず、全くオリジナルな方法で数々のハードルをクリアした作家がいる。
 その、目から鱗が落ちる手法を、私はこれまで二つ目にした。
 いずれも同一作家の手によるものである。

 その作家の名は、野球漫画の巨匠・水島新司先生であった。
 以下では、その画期的手法を紹介したい。

4.いかに乏しくとも、自分の語学力でなんとかする。

〔発見作品:「ドカベン」(柔道編)〕
〔シチュエーション〕
 日米高校柔道対抗戦に出場すべくやってきたアメリカ人高校生は、対戦相手だとは知らず、山田太郎と懇意になり、一緒に銭湯に行く。
 しかし、ロッカーの鍵を掛けなかったため、服を盗まれてしまう(うーん、時代だ・・・)
 そこで彼が叫んだ悲嘆の言葉は

 「ミーの服ナッシング!!」

 ナッシング・・・何処を切っても、英語としても日本語としても適当すぎるこのセリフ。でもまあ意味は通じる。
 水島先生が、野球関連以外の横文字にはてんで弱いということを認識させられた。
 そこに追い打ちをかけてこれだ!!

5.発想を転換してみる。

〔発見作品:「ストッパー」〕
〔シチュエーション〕
 主人公・三原と外国人チームメイトとの会話。最初のうちは前掲4の方法で何とかしていたが、やがてもの凄い手法を編み出した。
 ある時を境に、欄外に一つの脚注が入る。曰く、

「フキダシの中の『ペラペラ』という部分は英語を表しています。」

 ・・・・その手があったか!!なんかエウレカ。
 これ以降、二人の間では「ペラペラ」「ペララペラ」「よし、それで行こうペラ」・・・といった感じの会話が炸裂。

 あまりに凄すぎるせいか、この「ペラペラ」法を継承した作家を、私は知らない。
 水島新司恐るべし。思えばこの世代の人って、(私の父母を見てもそうなんだけど)横文字には弱いからねえ。それを独創でカバーするあたり、巨匠の巨匠たる所以でしょう。てなとこでまとめ。

(了/1999.6.23)

漫画の中の外国語U(一人称編)

 ここで扱いたいテーマは一つ、それは「ミー」である。

 これを使う人物は、「基本的な日本語を使える、しかし随所に外国語が交じる」という設定のもとにある。
 しかし、文法的に言えば、目的格である「me」が「ミーは悲しい」「ミーの服」(前項参照)という使われ方をするのはおかしいわけだ。
 第一、誰しも外国語会話を習うときは、早い時期に一人称を覚えるものではないのか。まして、日本語の一人称は活用もなく、「私」一つあれば、男女の別なく使用できる。
 実際、テレビなどで見ると、そんなに日本語が達者でない外国人であっても、「私」「僕」という一人称はきちんと使えている。というか、「ミー」と自称する外国人を、私は見たことがない

 それなのに、彼らの一人称は「ミー」。
 場合によっては「これが年貢の納め時」などという高度な語彙まで使いこなしながら「ミー」。

 「ミー」の代表的な使い手は、何を置いても「おそ松くん」のイヤミである。
 「おフランスかぶれ」(この「おフランス」という語も、天才の仕事という他はない)なのに、なんで一人称は英語なんだろう、という疑問は残るが、まあそこが「インチキイヤミ」たる所以でもあるからいいとして。
 また、強烈な印象を残した「ミーキャラ」としては、池沢さとし「サーキットの狼」に登場した濃ゆい敵・隼人ピーターソンがいる。鼻につく態度、神業を持っているのに卑怯な闘いぶり、死んだと思ったら生きてた、等々わかりやすい設定で、異様にキャラが立っていた。

 「ミーキャラ」については、まだ調査すべきことが多い。
 一つには「イヤミ以前」のミーキャラの存在を確認しなければならないし、「イヤミ以後」のサンプルについても調べてみたい。何の役にも立たない行為だが。

 ともあれ、「ミー」の使用が「外国人」の記号として成り立ってしまったのは疑いようがない。
 最近見ないような気もするが、忘れた頃に出現するのがミーキャラだ。発見なさった方はご一報を。

 音声付きでミーキャラに会いたい向きは、「スーパーロボット大戦F」を購入し、スーパー系でスタートしてみて欲しい。インチキ外人ぶりを遺憾なく発揮するジャック・キング(cv・井上”海外ウィークリー(古っ)”真樹夫)に会えるはずだ。

(了/1999.6.26)           

*正義の解体(ワイルド7の三段論法)*

 まず、望月三起也の「ワイルド7」を知らない向きのために、作品の概要を説明せねばなるまい。
 警視庁若手きっての切れ者、草波検事が「悪党を知る者は悪党、故に悪党を倒せる者は悪党」という理論のもと、稀代の悪党を集めた、七人の超法規的警察隊。それが「ワイルド7」である。
 彼らは通常必要な「捜査・証拠収集・逮捕」というプロセスを経ずして、悪党を「消す」ことができる。
 (冒頭の「こうやるから退治ってんだよ」のくだりは、何度見ても鳥肌が立つカッコよさだ!)
 その上、全員が署長レベルの権限を有しており、主人公・飛葉大陸(ひば・だいろく)の階級は実に警視正!
 襟の裏にバッジを付けており、いざという時の”エリチラ”も一つの見せ場である。

 さて、この作品の魅力は、第一には、ワイルド7の面々の「悪さ」にある。
 少年誌(「少年キング」の看板連載だった)連載作品としては、突出したダーティーヒーローと言うほかない。
 何しろ、彼らは与えられた権限をいつだってフルに活用する。
 状況証拠だけで、容疑者(ですらないわけだ。法律的には)の頭をショットガンでぶっ飛ばし、泣いて助命を願う共犯者も射殺する。序盤のこのアナーキーな展開(と独特の絵柄)について来れない者は、ここで挫折する。

 そして最大の魅力は、「その最強(凶)最悪の警察」が「もっと悪い連中を倒す」というカタルシスにある。
 つまり、そこにある「退治の理由」は、「俺達は悪人である」→「しかし奴らはもっと悪人である」→「ゆえに俺達は奴らを退治する」という、単純明快にして、ある意味危険な「量的・相対的な正義」である。
 「悪」の度合いを測り、引き算し、そこに残った憤りが、彼らの行動原理となるのだ。
 その危険性は、これまで少年誌では不可侵であった「正義の絶対性」を揺るがすものであった。そう、今まで「正義の味方」「悪の組織」という単純な二元のカテゴリーで済んでいた分け方が、実は「量の違い」「程度問題」だ、という見方が生まれたのである。
 「ワイルド」の真のアナーキーな部分とは、読者に与えた、その「揺さぶり」ではないだろうか。
 自分を含め、「ワイルド」を愛した人は、心のどこかでそこに惹かれていると思う。
 反面、そこに妙な居心地の悪さを感じる人もいる。それも当然の「良心」の働きだろう。

 さて、作中では、その「悪党」が「いかに悪人か」というのを示すため、実に執拗な悪行が重ねられる。
 何しろ、生半可な悪行ではワイルドの面々に勝てない(=退治してもらえない)のだから、ストーリー上仕方がない。
 そんなわけで、作中に登場する「けなげな人」「凄くいい人」「ワイルドメンバーの優しさを知り、協力する人」は、大抵殺される。慣れてくると、登場した瞬間に「あ〜、こいつ殺されるわ。」と分かるようになる。(この辺り、感覚的には必殺シリーズに似ている。)
 当然、ワイルドのメンバーだってよく死ぬ。これほどメンバーがホントに死んで、頻繁に入れ替わるヒーロー漫画も珍しい位によく死ぬ。ジャンプの長期連載漫画とはえらい違いだ。
 例えば、入れ替えメンバーの「デカ」。現場たたき上げの刑事という変わり種だが、その善人そうな風貌は「こいつも”程なく死ぬ”用だろうな。」と、全ての読者が感じたものだ。(結局殉職。しかし予想以上にもった。)
 もっとも、この「メンバーだってよく死ぬ」というフォーマットは、「死んだかと見えたが実は生きてた」というシチュエーションでは、抜群の威力を発揮した。だって、本当に死にかねないから。

 本題に戻ろう。
 基本設定によって解体された「正義」は、相対化されつつ、色々なエピソード(草波さんと飛葉ちゃんの”勧進帳”とか、ターゲットの悪行三昧とか)を通じて、一種の「義憤」に近い物に再構築され、クライマックスの悪人退治に至るのである。
 そこに、誰にもマネの出来ないカタルシスが生じる。で、少年少女は何だかちょっと大人に近づいた感覚を覚えた・・・人も多かったのではないだろうか?

 しかし、このことも記しておきたい。
 「ワイルド」で成長した少年少女たちは、それ以前に、「わかりやすい」正義と悪の対立する世界に慣れ親しんでいたからこそ、このコペ転を体感できたのではないだろうか?
 大人になったからこそ、その単純な二元論を物足りなく感じるものの、「わかりやすい正義と悪の話」は、発育初期にはやはり必要なのだろうと思う。
 というより、一番最初にこれを読んで育つのは、やはり何か間違っているような気がする。
 そう、「正義の初歩」を知らない、全くの子供には、”まだ早い”のだ。

 〔付記〕
 とはいうものの、望月三起也は、浪花節的エピソードが嫌いなわけでは決してない。
 事実、「ワイルド7」にも、諸処に人情味をおびたエピソードが登場する。
 ドライな設定、タフな主人公、そして独特のウエッティズム。その同居が望月作品の魅力だと思う。
 その辺のことについては、機会があれば書いてみたいと思っている。


(了/1999.6.28)

つれづれガンダム

 そもそも、”ファースト”・ガンダムという呼称からして好きになれない。
 というのは、「機動戦士ガンダム」こそが「ガンダム」であり、それ以降のガンダムは何だかなあとしか思えない人種だからだ。ゆうきまさみ先生言うところの「ガンダムの前にガンダムなく、ガンダムの後にガンダムなし」、それがぴったり来るのが私であり、相方であったりするわけだ。
 私の世代は、小学校中学年にガンダムに遭遇、高学年にはガンプラブームに直撃された世代なので、同じ意見の人間はことのほか多い。精神的に吸収が早く、多感な時期に、このエポックメイキングな作品に直撃されたのだから仕方のないことだ。
 それは、本当にコペルニクス的転回だった。
 発端→その回の敵登場→戦闘(合体・名前を叫んだ上で出る技)→勝利というフォーマットでほぼ統一されていたロボットアニメに慣れていたジャリガキたちは、一話完結でもなければ、主人公メカは選ばれし者でなくても操縦可能、ロボットは一話の仕様ではなく量産という概念の導入、主人公は内向的で、味方の組織も全然正義じゃない…という斬新さにショックを受け、当時ビデオデッキは高額で買えず、ひたすらTV画面にかぶりついたのである。
 そんな直撃世代にとって、「ガンダム」こそが真のガンダムであり、この体験が出来なかった人は可哀想……とか、そーいう話をしたいのではないのだ、私は。

 確かに、マジンガーZで産湯を使い、ガンダムで自我を育成できたのは幸運だとは思うが、どの年代に生まれるかは全く天の配剤で、自慢したってしょうがない。
 それに、ファーストコンタクトは誰にとっても特別なものである。それにケチを付けたところで意味がないだろう。
 で、「ガンダム」である。
 個人的な感情では、付いて行けたのは「Z」まで
……だと思う。最早当時高校生になっていた自分には「ZZ」はちょっときつかった。主題歌が……というのもあるが、「Z」の最終回に予期せぬショックを受けていたところに、いきなり脳天気系の主人公が登場した瞬間、私は訳も分からず彼岸に置き去りになってしまったのだった。「ガンダムのパイロットは、しみったれた奴じゃなければ絶対にダメなのだ!」とか主張しつつ、真相は単に部活が忙しかっただけなんだが。(でも、「ロボ大」ではいそいそと使ってます、ZZ。)
 ただ、基本的に「宇宙世紀」系の作品はまあいいんである。(0083とか。)「逆シャア」も、最期に星を押さなかったら……とは思うがそれもまたいいとして。

 問題は、所謂「平成ガンダム」で、論点は一つ、「何でこれが”ガンダム”じゃなきゃいかんのか」ということである。
 能書きを言い合いながら、やたらと人が死んでいく「Vガンダム」は、非常に富野監督らしいといえばそうだった。(ちょっと目を離したら、W3みたいなMSが出てたり、日本昔話みたいなMAが登場したり、メカデザイン的にはエラいことになってはいたが。)
 さらに「Gガンダム」では、第一話から置いてかれた。(ちなみに、麻雀しながら見ていた。)
 これは、最近では「許せない作品」の最右翼だったのだが、ちょっと考えを転換してみると……もしかして、このすさまじい飛距離のノリは、私の愛する系統のものではないのだろうか?と思えるようになった。つまり、私の立腹の根底にあるのは「何でこんなモノがアンテナあるだけで”ガンダム”を名乗るのか!」という憤慨であり、ガンダム世界を無惨に汚されたような悲しみだったのである。
 もしも、これが「ガンダム」の名を冠さない、全く別の新番組だったら、自分のフェイバリットに入るマッドな一作になり得たかもしれないのである。(その場合、「レッドバロン」とかぶった挙げ句、さっさと打ち切り……という可能性は非常に高いが。)
 勝手に考えるに、一つは製作サイドの事情として、「ガンダムシリーズであれば、スポンサーも付くし、ある程度の視聴率にもなるだろう」というのが根っこにあって、独自シリーズが出にくくなっていたというのがあると思う。不景気ならば、なおさら冒険はしづらくなるし、アニメ番組自体も減っていた。
 第二には、○野に劣らぬマッドさんと言われる今川監督が、「これこれ!この世界観、ガンダムでやりましょう!東方不敗、これで行きましょう!敵はですね、ほらこのセーラームーンとか、風車ガンダムとか!」というノリで暴走して押し切っちゃったと言う可能性も大きい。(個人的には、絶対こっちだと思う。)

 ……まあ、ここで勝手に注目したいのは一番目の理由。つまり、「サンライズ、(あんど富野監督)ちょっと守りに入ってるんでない?」ということである。
 あとなんぼ「ガンダム(なるもの)」を作ってもいいんだけど、単発の新作に斬新な企画がないと、「ダンバイン」「ザブングル」そして「ボトムズ」のような、記憶に残って長く愛されるモノはこの先作れなくなってしまうのではないだろうか、と勝手に危惧してしまったのである。「ガンダム」だけでなく、そういう作品があったからこそ、バンプレストのゲームも盛り上がるってもんだ。(そして「バトルロボット烈伝」みたいなカスを、発売日に買っちゃう愚行も犯しちゃうってもんだ。以上実話。)
 今まさにTVアニメと運命の出逢いをする子供たちにとって、目の前にあるロボットアニメが「続編」ばっかりじゃ、ちょっと淋しいと思う。余計なお世話か。
 でも、今幅を利かせてるのが、超ロングランの定番(サザエさんとか、ドラえもんとか)とか続編とかリニューアルばっかりなのは何ぼ何でも寒いと思うんだけど。

 それにしても、「ロボ大」の中で、兜甲児センセイが「アンテナが二本立ってると、みんなガンダムに見えちまうんだよ」と凄い台詞を言っていたが、1999年は、よもやアンテナがあんな位置に来るとは。ちょっとお釈迦様でも(死語)予想できなかったぞ。シド・ミード。

(了/1999.8.8)