石ノ森漫画は「いいひと漫画」か?

 小学生の時分に「サイボーグ009」にハマってからというもの、随分多くの石ノ森作品を読んできた。
 それとはまた別に、「悪の魅力」ってものにも心惹かれながら育ってきた。そして、ある日ふと気づいた。

 「石ノ森漫画に、“悪のヒーロー”は存在しないのか?」と。

 一般大衆に「ヒューマニズムの権化」と目され(私自身は決してそうは思わないが)、PTAも安心の手塚治虫御大にも「アラバスター」「MW」といったピカレスクロマンがあるというのに。(また、キャラクター的に「悪」とは言えないが、「ブラック・ジャック」や「七色いんこ」「シュマリ」の魅力も「悪の匂い」に依るところが大きいと言えよう。)

 本当に、「石ノ森ピカレスクロマン」は存在し得ないのか?ということを検証しつつ、石ノ森漫画のアイデンティティについて考えてみたい。

<ケース1:スカルマン>

掲載:「週刊少年マガジン」1970年3号
概要:
顔の上半分を隠す髑髏の仮面を被った謎の男・スカルマンは、変身能力を持つガロと共に、代議士・女優・要人達を容赦なく殺し、研究所や列車を破壊する。その最終目的は、自分の両親を殺した男・日本の政財界の黒幕である千里虎月という男であった。
 しかし、千里を追いつめたスカルマンは、千里虎月が自分の祖父であり、怪物を作り出す息子の歪んだ天才ぶりを危惧し殺したのだと聞かされる。千里は自分の屋敷に火を放ち言う。「わしらは生まれてくる時代を間違えた」と。
 愕然とするスカルマンも炎に包まれ、物語は幕を閉じる。

 その後、東映よりテレビ化の話が持ち上がるが、「食事時の子供番組で髑髏はちょっと」とNG。後継企画として採用されたのが、かの「仮面ライダー」。

 その後、島本和彦がリメイクして刊行中。

 そもそも「髑髏の仮面」という時点でかなり偽悪的なデザインと言える。また、施設を破壊するにも、「何も知らない下っ端だから許そう」という温情はなく、ひたすら完全殺戮。これはかなり「ピカレスク的」な主人公と言ってよい。
 制作意図としては、担当編集者から「もう正義の顔をして正義を行うっていうのは今の時代に合わない。それなら、悪の顔をして正義を行うキャラクターができないかと思いまして」とオファーがあり、先生本人も「子供向けのホラーとして、とにかく怖がらせようとして作ったので非常に暗い」と語っている。(1997年・P−KC版「スカルマン」あとがきより)
 ストーリーと合わせて考えてみると、スカルマンの行動原理が「両親を殺された復讐」であり、「悪に染まった社会への鉄槌」であり、最後に真相を知り、結局非業の死(?)となる。
 うーん、スジが通っているし、「悪」とも言い切れないんではないか?
 しかもラストでは、悪の黒幕が祖父であり、心を鬼にして息子を殺した真相を知って、心揺さぶられたまま完。
 「心揺れる」のは、やっぱりピカレスクには相応しくないのだ。

<ケース2:心揺れるヒーロー達>

 しかしながら、その「揺れる心」こそが、石ノ森ヒーロー達の最大の魅力ではないだろうか。

 サイボーグであること、人間であることに揺れる009達。(ギルモア博士ですら、科学者であることと、親心の間で揺れていた。)
 機械でありながら「良心回路」を授けられたことで、善と悪の間で揺れ続けたキカイダー・ジロー。(特に彼の場合、左右アンバランスな造形が、そのまま存在のアンバランスさを表現しつくしていた)
 改造手術の傷を隠すために仮面を被らざるを得なかった本郷猛(漫画の設定:「怒りがおれの顔の……全身の傷跡を……よみがえらせる!!……そしてこの仮面だけが……傷跡を……心を……隠してくれるんだ!!」(「仮面ライダー」一巻))もやはり、人間であることと改造人間であることの間で揺れていた。
 女性軍では、「009ノ1」のミレーヌも、恋心や肉親への愛と、スパイサイボーグであることの間で揺れ、「くの一捕物帖」の緋鳥も、抜け忍の運命と恋の間で揺れた。

 主人公達は、多くの場合「二つの間」に置かれ、「同時に二つであること」に苦しんだ。
 その状況を「マージナル」と言い、マージナルの中で揺れる存在を、多く「青年」と呼んできた。

 石ノ森主人公達は、その多くが「青年的」(「ジュン」がもっとも分かりやすく青年的といえる)である、と言ってよいだろう。
 あるいはそれは、15歳でプロデビューした石ノ森先生が、既にプロとして青年期を過ごしたことに関連があるのかも知れない。いずれにせよ、その叙情性・文学性が、石ノ森作品に通底するアイデンティティであることは間違いない。

 それでは、先生のキャラクターの中でも、特にクールな方々にご登場願って、色々検証してみたいと思う。

<ケース3:アルベルト・ハインリヒ(004)>

 00ナンバーの中でも「死神」と呼ばれたクールな男、004。
 全身が武器(手はナイフ・指はマシンガン・肘と膝はミサイル・体には原爆)という9人中最も高い「異形度」の持ち主故、ことさら冷徹に構え、「殺人機械」として生きることに徹しようとする。
 だからこそ、どうしても零れ出てしまう人間味に、魅力溢れるエピソードが多い。
 殊に、002との友情エピソードは出色。(小学館少年サンデーコミックス5巻所収「サイボーグ戦士誰がために戦う編」など。)
 映画「超銀河伝説」では、自爆して涙を誘い、ラストで人間として復活するのだが、「俺がみんなの為に死ねたのもサイボーグだからだ。俺はやっぱりサイボーグじゃなきゃいけねえ」と言って、再改造を望む。(個人的には、この映画はあまり好きではないのだが・・・)
 最も機械度が高いが故に、彼の「揺れ」は最も心に響くのである。

<ケース4:ハカイダー>

 ここでは前半のいわゆる「光明寺ハカイダー」に限って話を進める。
 ハカイダーは純然たる機械だが、キカイダー達の生みの親である光明寺博士の脳を移植されたことによって、またマージナルな設定を施されることになった。(これはむしろ、ハカイダーよりも、キカイダー側に「ハカイダーの破壊=博士の死亡」という足かせをはめ、心を揺らしてストーリーを盛り上げた。)
 なお、TV版「キカイダー01」では、ハカイダーやらワルダーやらが別の意味で妙な人間味を発揮しマージナルになって大変だった(笑)。

<ケース5:市(「佐武と市捕物控」)>

 うーん、では市やんならどうだろう。
 一応十手持ちの佐武に対して、捜査権も帯刀権もないのに悪人を切りまくる市やん。
 石ノ森ヒーローの中では最もクールに見えるし、「迷い」も見えない。年齢的にも「青年」を通り越している。
 と思いきや、「熱い風」(1969年7月発表)では、こんなエピソードがある。

 顔も知らぬ盲人の剣豪から勝負を挑まれる市やん。「斬り合いだけが生き甲斐」と言い切るエキセントリックな彼と勝負することになるが、側にいた佐武は「あいつは、市やんより強い!」と即座に見抜く。
 市が切られそうになり、思わず佐武が加勢してしまい、結局市やんが彼を斬る。
 勝負に手出しをしてわびる佐武に、市やんがこう言う。

「あたしァね、佐武やん、自分の強さが……怖かったんだよ。その強さで一生涯人を切り続けることになるんじゃないかと思って……ね。で、でもいま……世の中にはあたしより強い奴がいるって。そしてあたしは やっぱり……誰かに助けられねえと負けちまう目の見えない按摩だってことが判って……な、なんだかホッとしているんだよ!!

 市やんもやはり、自分の居合いの強さと、一人の弱い人間であることの間で揺れる、「青年」的要素を持っていたことが分かる一作である。

<最後に:マージナルのもう一つの方向>

 勿論、悩むばかりが石ノ森キャラではない。青年誌発表の作品では、軽妙洒脱さが魅力のキャラも多い。
 例えば、世知辛い世の中で、虚構を織り交ぜた「装い」を粋に演出する「化粧師」の式亭小三馬や、「さんだらぼっち」のとんぼなど。
 彼らは、「二つの世界のマージナルにあって、その二つをすいすい生き抜く」軽みを持ったキャラクターである。「ちょっと大人」な世界を描くにあたっても、やはり石ノ森世界の「マージナル」な性質が活かされている、と私は思うのである。

(2000.2.9了)

部活で漫画

 それなりに「部活動」に力を注いだ者にとって、それは忘れがたいものである、と思う。成績とか何とかではなく、帰宅部や幽霊部員には分からない、何か特別な楽しさがあった。
 漫画の中で、特に「部活感」を強く感じる作品について、つらつら書いていきたい。

<運動部の場合>
 *小林まこと「柔道部物語」

 文庫になって一気に読み直したのだが、この作品世界が徹頭徹尾「部活」であったことをあらためて実感した。
 例を挙げれば、「一年への理不尽なしきたり(丸坊主強制)」「訳の分からない恒例行事(野球部の「アメフレ」とか)」「二年になっても理不尽なしきたり(おはつ)」とかが、妙なリアリティをもって迫ってくるのだ。こういうこと、今ではあんまりはやらない(というか、あまり大っぴらにやれない世の中になってしまった・・・)けどね。
 本作のギャグメーカーである「名古屋君」が、「しきたり」をその身に受ける度に
「来年二年(三年)になって、後輩にこれをやるまでは、絶対に(部を)やめるもんか!」と誓うのは、私も嘗て上下関係の厳しい部活動に所属していたからよく分かる。多分、実際に柔道部員であった小林先生もそう思ったに違いない。

 知らない人の為に少し説明しておくと、この作品は、先輩の口車に乗せられて柔道部に入部する羽目になった三五十五くん(吹奏楽部出身)が、一から始めた柔道の世界で、秘められた素質を開花させていく物語。ストーリーとか、柔道シーンの上手さについては言うまでもないが、それよりも、三五の成長の中で、「二年になって後輩ができた感じ」「三年として部を引っ張る感じ」が、本当によく表現されている。
 物語のラスト、進学を決めた三五の前に、OBの鷲尾さんが現れ、最後に彼に向かって柔道部の挨拶をして終わる。その締め方、最後まで「部活動」であって、最後の最後にこの物語が「柔道部」物語であったことを思い出させる。とても好きなラストだ。

<文化部の場合>
 *ゆうきまさみ「究極超人あーる」:光画部

 この作品の連載当時、私は高校生だった。で、所属していた部活(マンドリン部)の環境が、わりと光画部に似ていたこともあって、あーるとさんごの高校生活には、何となく勝手にシンクロしていたものだったのを思い出す。
 以下、個人的な思い出話になってしまうが、お付き合いいただけると幸い・・・

★部室が別棟で、独立している。

 マンドリン部は比較的新参の部活でもあり、出す音もやかましいこともあって、旧武道館を与えられて、部員数の割に