石垣りんというセメント

 同じ詩集を読んでいても、年齢や心理・健康状態、季節、また人生経験などによって感想が随分変わっていて自分で自分に驚かされることがある。
 学生の頃には分からなかった良さがある作品もあれば、昔は酔いしれたのに今になってみるとそうでもなく、青かった自分が恥ずかしく思えてならない時もある。夏に読んでもどうということもないが、秋に読むとたまらない一編もある。この楽しみがあるから、また思い出した頃に読み返してしまうのだろう。おかげで好きな詩集は付箋だらけ、「大道寺さん、こんなん好きなんスね」とモロバレなので恥ずかしくて他人に見せられない代物になってしまった。

 石垣りんの作品は「表札」や「鍋とお釜と燃える火と」「峠」「シジミ」などが中学・高校の教科書や問題集に取り上げられることが多い。
 率直にガシガシ刺さってくる言葉扱いに興味を持って、高校生のときに詩集を手にした。楽しめたものの、全体的に「女」であることが前面に出すぎているように思えて、そんなに好きにはなれなかった。(「女性性を敬遠する」というのも、思春期に現れうるひとつの傾向でもあるし)
 後に教壇で「シジミ」を扱ったこともあるが、そんなに好きな作品ではなかった。

 ちょっと前に、本当に何とはなしに文庫版の「石垣りん詩集」を買って読んでみた。
 私が30の声を聞いたせいか、それとも結婚したせいか、一つ一つが前よりもすんなりと入り込んできて意外なほどだった。
 今と昔とは事情が全然違うけれども、「ヨメ」として「イエ」構成員となった実感がそうさせるのか、ただ単に年を取ったのか、おそらく両方だとは思う。

 中でも、「ちいさい庭」という一編の第3パラグラフはちょっと尋常でない。

        ちいさい庭

老婆は 長い道をくぐりぬけて
そこへたどりついた。

まっすぐ光に向かって
生きてきたのだろうか。
それともくらやみに追われて
少しでも明るいほうへと
かけてきたのだろうか。

子供たち−−−
苦労のつるに
苦労の実がなっただけ。
(だけどそんなこと、
人にいえない)

老婆はいまなお貧しい家に背を向けて
朝顔を育てる。
たぶん
間違いなく自分のために
花咲いてくれるのはこれだけ、
青く細い苗。
老婆は少女のように
目を輝かせていう
空色の美しい如露が欲しい、と。


 私に子供はいないけれども、多分、愛情の中にもこんな思いがよぎることは正直少なくないのだと思う(単に自分が親に迷惑を掛け捲ったからそう思うのかもしれないが)。
 だが、女性がまともに生きていこうと思ったらこの言葉は外に向けては出せない。思っていても言えないし、書けない。友達などに愚痴ることはあってもあくまで一時的な発言として処理するし、まして後に残る形では。
 近年でも女性脚本家が子供についてネガティブな一言を書いただけで、「子供の天使のような可愛らしさが理解できないなんで、あなたは人間(女性)じゃない」などと訳のわからない難癖をつけられ叩かれたりもしている。(で、そんなマイエンジェル育児がどんな連中を大量生産したかは言わずもがなだったりするが)
 無論(詩作中の人物のモノローグとして処理できるレベルとはいえ)、石垣りんが覚悟と誇りを持って言葉を紡いでいる事は初期より変わらないのだが。しかし、悪意的に読もうとすればどこまでも読めるようなフレーズを、叩かれる可能性も承知で書く骨太さが凄い。
 他の作品を御存知ない方のために断っておくと、彼女の子供への視点は、別に総じてネガティブなわけでは決してない。
 「子供。/お前と私の間に/どんな渕があるか/どんな火が燃え上がろうとしているか、/もし目に見ることが出来たら。/私たちは今/あまい顔をして/オイデオイデなどするひまに/も少しましなことを/お前達のためにしているに違いない」(子供)
 「子どもよ/おまえのその肩に/おとなたちは/きょうからあしたを移しかえる。/この重たさを/この輝きと暗やみを/あまりにちいさいその肩に。/少しずつ/少しずつ」(空をかついで)
 などの名作は、甘い希望の言葉はないけれど、子供を育て、見つめるという行為を「業」に近いものと自覚しつつ、目をそらさず、一歩も逃げない姿勢が表現され尽くしている。。

 それにしても、女性とか親子というものをよほど客観的に見ていなければこの言葉は出てこない。
 石垣りんの最たる凄みは、女性とか親子とか生命とかその他諸々の事を、どこまでも「自分の問題として」客観視していることではないかと思う。だから突き放した表現でもどこかに体温があるし、よくある「女性として、母として書きました」という自家撞着に陥ることもない。そういう見事さを強く感じた。
 なんというか、詩に限らず、全ての言葉での表現の中で見ても、ストロングスタイルである。ギミックとか馴れ合いのない、格闘技用語で言うところのガチンコでありセメントという言葉がよく似合う。
 詩の中にあっては、「苦労のつる」という言葉が、後述の「朝顔」のイメージと絡み合う役割を果たしているといえる。

 石垣りんの詩を読むと、人間の肉体そのものや全ての営みというものが、いかに悲しく、罪深く、それでいて愛しくもあり、捨てきれるものでもなく、総じて身も蓋もないものかということがストレートに沁みてくる。(初期作品で強く表現されている「家の束縛と女性の覚醒」というテーマや作者自身の略歴については、詩集解説などに詳しいのでここではあえて触れない)
 こういう身も蓋もなく率直過ぎる表現が出来て、また「気づかないほうが幸せに暮らせる」ようなことにガンガン気づいてはそれを書く才能の人というのは、女性として幸せかというと世間的には決してそうでないような気もするけれど、この「強さ」は何度読んでも感銘させられる。
 三十路になってこんなに新鮮に読めたということは、あと10年、20年経ったときにはどんな「沁まされかた」をさせられるのか、今から楽しみである。この愉しみ方があるなら、女で生きるのもそう悪くはない、と思えるようになった。手元において本当によかったと思っている。

<長めの蛇足>
 2001年10月18日現在、米軍の空爆が続いているのだが、今回の同時多発テロ事件発生後の経過の中、この詩を読んでいて「戦争の記憶が遠ざかるとき、/戦争がまた/私達に近づく。/そうでなければ良い。」のフレーズのストレートさ(個人的には最後の「そうでなければ良い」が値千金だと感じた)と危機感がまた沁みてしまい(別に私は盲目的な平和主義で報復を否定するものではないが、テロ対策のはずが「正義と悪の戦争」に無理やり消化されようとしている状況に対する危機感は他の人同様強く感じたので)、このテーマが風化しないことを実感した。

        弔詩〜職場新聞に掲載された一〇五名の戦没者名簿に寄せて〜

ここに書かれた一つの名前から、ひとりの人が立ち上がる。
ああ あなたでしたね。
あなたも死んだのでしたね。

活字にすれば四つか五つ。その向こうにあるひとつのいのち。悲惨にとぢられた一人の人生。
たとえば海老原寿美子さん。長身で陽気な若い女性。一九四五年三月十日の大空襲に、母親と抱き合って、ドブの中で死んでいた私の仲間。

あなたはいま、
どのような眠りを、
眠っているだろうか。
そして私はどのように、さめているというのか?

死者の記憶が遠ざかるとき、
同じ速度で、死は私達に近づく。
戦争が終わって二十年。もうここに並んだ死者たちのことを、覚えている人も職場に少ない。

死者は静かに立ちあがる。
さみしい笑顔で
この紙面から立ち去ろうとしている。忘却の方へ発とうとしている。

私は呼びかける。
西脇さん、
水町さん、
みんな、ここへ戻ってきてください。
どのようにして戦争にまきこまれ、どのようにして死なねばならなかったか。
語って
下さい。

戦争の記憶が遠ざかるとき、
戦争がまた
私達に近づく。
そうでなければ良い。

八月十五日。
眠っているのは私たち。
苦しみにさめているのは
あなたたち。
行かないで下さい 皆さん、どうかここに居て下さい。

(詩の引用は、ハルキ文庫版「石垣りん詩集」によった。)