第一部 氷結都市(1)

 自分を拾ったのが誰だったのか。それすら今の彼女にはどうでもいいことだった。

 彼女-ラル・クラインは、17年前にこの惑星バイエルンで拾われた。
 この星では全体的に気温が低い。初夏の時期ですら、長袖でなければ間違いなく風邪を引くほどだ。
 そんな6月のある日、赤ん坊のラルは道端に捨てられていた。勿論、捨てた人間はいまだに不明である。
誰かは知らないが、まともな神経の人間ならば、こんな町に捨てようとはしないだろう。ここほど赤子を捨てるのに不向きな土地も、他にない。
 一つには年中寒く、乳児が一晩持ちこたえられる環境ではないということ。
 第二に、犯罪者と隠遁者しか棲まぬ街であること。言ってみれば、バイエルンに捨てる、というのは殺すのと同じなのだ。
 来訪者(以上の理由から考えにくいが)かもしれないし、地元の娼婦かもしれない。
 しかしラルは、そんなことを知りたいとも思わなかった。

 彼女には、育ての親たちがいた。だから、その6月の日も生きていられた。その事には感謝している。
 彼らは、自分たちのことを(例え枕に「育ての」が付いていても)「親」とは呼ばせなかった。そのルールを、ラルは良く守っていた。
 その複数の保護者達は、「あの日彼女を拾ったのが誰か」は言わなかった。
 ラルと彼らの間では、そんなことはどうでも良かったのだ。
 レンチを持つ手をふと止めて、ラルは空を見上げ、一つため息をついた。
 息が白く変わる。季節は盛春なのに、やはり寒いのだ、この街は。
 見上げる先に、この惑星バイエルンのターミナルビルがある。80階程の高さがあるそのビルは、この星唯一の清潔で立派な建造物である。「位」というのは、生まれてこの方足を踏み入れたことがないので、よく分からないのである。彼女は17年間、もともと日照条件の良くないこの街、その薄汚くなった建物の谷間から、そのビルを見上げて育った。
 もう一度吐いた息も、白かった。

 この街がここまでスラム化してしまった理由を、誰かから聞いたことがある。
 この星自体は、発見以来、ポリシーを持って開発されていたのである。もともと、交通網の交差する場所であり、トランジット機能を持った都市として、当初は注目されていた。
 開発の早い段階で、全体のコンセプトとして、「古風なヨーロッパ(特にドイツ・オーストラリアをイメージしたらしいが)の、ロマンチック」な路線が打ち出されていた。建造物も道路もそれに則って造られ、最初のうちは随分観光客も集まったらしい。
 しかし、徹底した環境条例が仇となった。建物一つ建てるにも、高さが制限される、建材を指定される、工法までも限定される…では、コストも手間もかかりすぎる。次第に大企業は退いていき、住民も住居メンテナンスの面倒さに辟易し、相当人口が少なくなってきた。その空き家に、犯罪者や住所不定者が勝手に住むようになり、善良な市民は本格的にいなくなってしまった。それが、バイエルン治安悪化のスタートだった。
 今では、この街には犯罪者や住所不定者、それにわけあって隠れ住んでいる人間しかいない。ターミナルはトランジットの客で賑わっているが、警察も有名無実化したこの市街地に入ってこようなどという分別なしもいなかった。
 その中でこれまで性犯罪の餌食とならずに育って来れたのは、やはり養親たちのおかげだ。身を守るための鍛錬もしたが、それもやはり彼らあってのものだった。
 感謝を忘れたことはないつもりだ。しかしラルは憂鬱だった。
 その憂鬱は、彼らが口を揃えて「そろそろバイエルンから出ろ」と言い始めたことだった。
 まっとうな言い分だが、どうにも承知しかねていた。こんな街でも生まれ育った場所だ。性にも合っていたし、危険はあるが不満はない。億劫な感じもする。しかし…

 それならば、あそこに登るのか、自分も。
 もう一度、ターミナルに目をやった。息は白い。

 ランチが終わって午後五時までの間、市街地唯一のバーは閉まっている。
 そのオーナーは、例の、ラルの養親の一人だ。エドワード・マキシマという名があるが、みんな「エド」と呼んでいる。初老にさしかかった、イタリア系の男性だ。ここに来たのは随分前らしい。スラム化が始まった頃、「そうはいっても、モノを売る店は必要だろう」ということに着眼し、ついでにバーも開いてしまった、商魂あふれる人物である。扱う商品は多岐に渡り、何しろ独占企業なので価格の適正さは分からないが、実際ここの住民で彼の世話になっていない者はない。当然エド自身も、今ではちょっとした顔役だ。
 金になることにしか興味のないエドが、なぜ「乳児を育てる」という面倒な計画に賛同したのかは謎(ラル自身は、多分渋々承服したに違いないと思っている。)だったが、物質面で大きな支えになったのは確かだ。
 店内では、やることが山ほどある店主が、ちょこまかと走り回っている。
 (エド、あんなに小さかったっけ。)
 そんなことをぼんやり考えながら、ラルは照明を落としたカウンターに、ただ座っていた。
 「おまえねェ、たいがいにしときなさいよ。」
伝票データを捌きながら、エドが呆れた口調で言った。
「何が。」
ラルはいけしゃあしゃあと返答する。
「忙しいんなら、臨時で入るよ。」
 彼女は二日おきに店の雑用を手伝っていて、一応のアルバイト料をエドから貰っていた。今日は非番だったが、客が多いときにはよく手伝っていた。
「そういうことを言っとるんじゃないのよ、俺は。」
勿論、今のはエドが言いたいことを知っていて、はぐらかす為の物言いだった。そういう韜晦ぶりは、エドによく似ていた。彼は構わず続ける。
「真っ昼間からいい娘が、こんな所でボーッとしてて、いい訳があるか。」
「〜、全く、エドまでその事しか言わない訳ね。」
ラルは、さも五月蠅げな顔で、長い足を組み替えた。
 エドの言う「こんな所」は、勿論、単にこの店を指すのではなく、バイエルンという都市を意味している。そして、彼女がこの街に訣別することを望んでいる。
「は〜、最近じゃ、誰ん所に行ってもこの話ばっかりなんだからな。」
「五月蠅けりゃ、他に行けよ。」
「冷たいもんだ、仮にも…」
と言って、反射的に口が淀んだ。それは禁句だった。エドがふと真顔になる。
「仮にも、何だ。」
「…保護者でしょう…」
エドは小声でやれやれ、と呟き、
「そんなに嫌か、ここから出るのが。」
「好きとか嫌いとか、そんなこと考えたこともないんだって。あたしにとっちゃ、そういう場所なんだって。」
これは、自分でも旨く言えたと思った。が、一蹴された。
「そりゃ、お前が他の場所を知らんだけだろうが。」
と言われて、ラルが黙る。
「いい加減に考えてみることだな、お前にとってこの街は…」
「エド!!」
 ラルは語気を荒くして、エドを睨みついでに、勢いのままカウンターのフットバーを蹴りつけた。まだ十七歳の娘のくせに、こんな時にはイヤに輝き鋭い、威圧感さえ持った目つきをする。ラルの鳶色の瞳を覗く者は、誰でもそう思わされるのだ。
 猛禽類を思わせるその光は、彼女の格闘技の師匠であるマックス譲りであるような気もするし、また天賦のものにも感じられた。
「いい加減にして貰いたいな、マリアもエドも、そんなにあたしをバイエルンから追い出したいって、そういう訳なのか!」
エドは答えない。仕方ないのでラルが言葉を継ぐ。
「バイエルンって所は…そう別に、好きとかじゃない。けど、その…そう、寒い朝の、人肌になったベッドみたいで…ね、つまり、あたしにとって、居心地は悪くない。そう思ってる。」
「上手いことを言うな。
 無言のままだが、エドはそんなことを考えている。確かに、ここに住む者全てにとって、バイエルンはぬるま湯的な都市だ。だから、自分も好きこのんでここに住んでいる。
 ぬるい湯もベッドも、出れば寒いからだ。寒い土地育ちの人間として、自然に出た比喩なのだろう。
「もういい、帰る!」
 無言を続けるエドに、逆に妙なプレッシャーを感じ、わざとドスン、と大きな音を立てて椅子から降りた。
 このまま話していたくない。
 養親達がこんなことばかり言うせいか、最近気分が不安定になっている気がする。どうでもいいことが気に障る。言うつもりのないことを言って、傷つけてしまいそうになる。それが耐えられなかった。
 男でもたてないくらいの乱暴な足音で通用口に向かった。そして、店を出しなに、
「とにかく!あたしがどうしようが、エドには一銭の得もないんだから、放っといてよね、あんたらしくないったら!!」
 そんな言い方しかできなかった。
「俺の性格は、把握してるわけだ。」
「何年一緒にいると思ってんの。」
 ドアが、やはり乱暴に閉まる。
 頭のいい娘だ、とエドは思った。

 何処へ行くでもなく、家にも帰る気がせず、近場をうろついていると、確かに自分がろくでもない人間に感じられてきた。
 それでも、今はこの街を離れるわけにはいかない。一つだけ、確かな理由があった。
 エドの所では、その所為だけにしたくはないので、言わなかった。
 その理由は、同時にラルが自宅に帰らなければならない理由だった。
 重い足は、ようやく自宅--古びたメゾネットに向かった。