第一部 氷結都市(2)

 「…なんだ、今度はマックスか。」
自宅のメゾネットに着くなり、ラルはうんざりした口調でそう言った。
「なんだとは何だ。ここは俺の家でもあるんだからな。」
”マックス”と呼ばれた黒人男性が言い返す。
 彼も、ラルの養親の一人である。元々は相当に名のあるボクサーだったらしいが、他の住人同様、自分の過去も、ここに至ったいきさつも、語ろうとはしなかった。ただ、190cmもある体躯は、胸の厚さも太い腕の張りも、40代後半という年齢を感じさせず、重量級の選手であったことを伺わせた。
 ラルが自分の身を守れるように、格闘技の数々を請われるままに教えてやったのも彼だ。手技の他に、基本的な蹴りも関節技も、体格差のある相手に効果的な方法も、知る限りのことを伝授された。
 そんな彼も、最近では口さえ開けば、他の者と同じことしか言わない。
 「マックスさあ、もう今日は訓辞は要らないんだからね。」
「ふん、大方、エドからでも食らってきたんだろ。」
「食らってきましたとも。…でもねえ!」
ラルは一歩二歩、マックスに詰め寄った。彼女のガンメタル・ブロンド-緑がかったような暗褐色-の髪が少し揺れる。
「…トニーがこんな時に、出て行くとか出て行かないとか、どうしてそういう事しか言わないんだあんた達は。」
「話をすり替えるな。それこそ奴に失礼ってもんだろ。」
 しかし、それは彼女にとって大きな理由だった。
 トニーというのは、このメゾネットの2階のベッドに寝ている、やはり養親の一人である。
 ずっと前に手術した腫瘍が再発し、3ヶ月位前から寝込んでいる。この星に医者はおらず、エドに口を利いて貰って、素性のはっきりしていない医師を呼ぶ他はない。その医師からは、手術出来なくもないが、転移が広範囲にわたっており、おそらく開いてもそのまま閉じるしかあるまい。無理に延命させたい希望がなければ、鎮痛剤を使用しながらこのままにするのも現実的な選択肢だ、と告げられた。
 トニー本人が、再発した時の覚悟を持っていたこともあり、結局切らずに時を待つことにしたのである。医師の見立てが確かならば(エドは「腕は確かだ」と言っていた)、「時」の終わりは近いはずだ。17年間、共に暮らし、育ててもらって来たのだ。その時までは、せめて側に居よう。
 そう思っているのに、必ず来る「関係の終わり」を待たずに、養親達は同じ事ばかり言う。
 トニーと付き合いの長い彼らが、平気でいるわけはない。それは分かっていても、やはりその行動は無神経にも、理不尽にも感じられてならなかった。
「だってそうだろ、あたしは…」
知らず知らず声が大きくなっているのを、マックスから目で窘められる。窓のすぐ下で口論していたのでは、寝ているトニーに聞こえてしまう。ついでに黙ってしまったラルに、マックスはひそめた声で言った。
「気持ちは分かる。…だが、あいつがお前に望んでいる事は何か、考えてみろ。そうしてやるのが、真にトニーの為だろ。」
「トニーは言わないよ。”出てけ”とは。」
「言わないから、考えろっつんだよ。」
それだけ語ると、夕食時に帰る、と言ってマックスは何処かへ行ってしまった。

 死を間近に控えた人間は皆、こんなに静かな雰囲気を持っているのだろうか。最近ではいつもそう思う。
彼の寡黙さ、穏やかさが、実の所ラルには一番こたえた。
 静かにドアを開け、閉める。夕刻前の西日がブラインドの隙間から差し込んで、ベッドに数条のストライプを描いている。
 トニーは眠っている。昔からこんな風に静かに眠る男だった。
 彼の前歴は舞踏家だったという。特に働かずとも、貯金で食えていたところから察するに(それはマックスもそうなのだが)、相当高名な存在だったに違いない。
 バイエルンにはいくつかのブロックがあるが、ここ”北E区”は、いつの間にか何かの事情で元の所にいられなくなった者が、縁者を捨てて隠遁生活を送る人間が多く住んでいる。いつ頃からこんな「棲み分け」が行われていたのかは定かではないが、元来はまともな暮らしをしていた人間が多いので、このエリアの治安自体は比較的良かった。
 トニーの本名はアントニオ・ヴェルドンという。何の専門家かは知らないが、幼い頃彼から踊りを習うのが楽しくて、バレエの基本動作とダンスのステップくらいは身に付いている。ラルのすっきりした体躯と、体の柔軟性は、彼によって培われたものである。
 今や彼の左下半身は悪性腫瘍に蝕まれており、華麗な動きを見ることもできなくなった。
 この穏やかな眠りのまま、いつ死んでしまってもおかしくはない。出来ることなら安楽に…とは思うが、その考えはラルには耐えられなかった。
 バイエルンでは、「死」は路傍に転がっている。それは日常の一つでしかない。つまらない喧嘩や薬物使用の果てに殺し合う者、餓死する者、凍死する者、娼婦の死体もたまに出る。死骸ならいつでも見てきた。しかし、心情的に親しい人間の死に直面するのは初めてだった。どんな感想を覚えるのか、覚えないのか…それは想像もつかない。
 「…ラル。」
不意の呼びかけに、ラルの体が一瞬びくっと震えた。
「おはようトニー。何処か痛くない?」
「今何時だ。」
「3時半。」
「そっか…いや、起きた時にな?」
「え?」
「一瞬、何処にいるのか分からなくなることって、ないか?」
「ないなあ、あたしは。」
ブラインドを開けてやりながら、淡々とラルが答える。
「第一、ここ以外で寝起きしたことないもんね。」
「ははっ、そりゃそうだ。」
「多い?そういうこと。」
何かの全長のように感じられて、ラルが尋ねた。
「昔はよくあったぜ。疲れたときとかな。今はあんまりないな。ラルやマックスがいるからかな。」
と言って、トニーはまた黙り込む。ただ、ラルをじっと見ている。
「何?」
「いや…お前に言っておかなきゃならないことがあった…ような気がする。…まあいいか。思い出せないことは、大したことでもないだろう。」
「何それ。」
「じいさんがよく言ってた。」
 トニーは真面目な性格の男だったが、真面目な話は苦手だった。いつも話題になるのは、読んだ本の話、映画や音楽、バレエの演目の話などで、結局今日もそんな話で終止した。17年間の、そういう四方山話が、学校に行ったこともないラルに知的好奇心と文化的知識を与えていた。
 いつもと同じそんな会話を終える。
 ラルは少し安心して夕食の仕度をした。マックスを待たずに二人でチリコンカーンを食べ、鎮痛剤を飲んだトニーは、またすぐ眠ってしまった。

 一階にあるガレージの扉を開く。もともとスイッチ一つで開くタイプの物だが、今は壊れてしまって、手動で開けるしかなくなってしまっている。中に入ると、出しやすい位置に青い機体がある。”モルフォ”という美しい蝶の名を冠した、大型のバイクである。後部にマフラーがなければ、灰煙を吐き出すアナログタイプのオートバイとは気づかせないだろう。
 時代が変わっても、この手のアナログな二輪や四輪には根強い人気があり、使用禁止条例のある都市が多いにも関わらず、20世紀の名車のレプリカはよく売れている。この機種は、さるマニアックなワークスガレージからカタログ買いした物で、なんでも元々試作品だった物をレプリカ化したものだという事以外は、ラルも良く知らない。
 もともと、4輪が好きなマックスの姿を見て、育つにつれて趣味まで移ってしまったラルが、一目惚れして買ってしまったのである。1年前のことだが、1年分のバイト料がこの機体につぎ込まれている。
 Tシャツの上に、プロテクターが中に縫い込まれたタイプのライダースジャケットを着込み、バイクと同じ青いヘルメットをかぶり、エンジンを始動させる。
 ラルとこの群青のマシンの取り合わせは、この界隈ではちょっとした名物になっていた。
 暖気をして、出ようと思ったところにマックスが帰宅した。
「何処行くんだ、こら!」
「あ、丁度良かった、トニー頼むわ、寝てるけど。そうそう、メシあるから。」
「おい、またマリアんとこか。」
「ん。今日のうちに帰るから。」
「…また暴れて来るんじゃないだろうな。」
「人聞き悪いなあ、あたしはいつも、自分から手ぇ出したりしないよ。パトロールだな、パトロール。」
「いい加減に、ああいう場所…」
マックスの言葉をエンジン音で遮る。行ってくる、と行った瞬間、もうラルはその場を駆け抜けていた。

 マリアとその”姉妹”達が住んでいる西B区は、徒歩ではちょっと遠い。このエリア間の距離によるアクセスの悪さも、バイエルンの開発を妨げた要因の一つであった。
 マリアの名字は、誰も知らない。娼婦としてはありがちな名前だ。
 彼女も、ラルを養い育てた一人である。唯一の同性ということで、実質的に母親の役割を果たしてくれた女性である。ラルとの精神的なつながりは、他の誰よりも強いと言っていい。
 本来名字などないラルの名前も、彼女が決めた。タロットカードにアルファベットを順に当てはめ、十回引いて決めた物である。しかし彼女は、環境が与える影響を考慮し、決してこの区域で育てようとはしなかった。
 マリアは、顔立ちこそ生来整っているが、もう50代に差し掛かっている。さすがに容色も体力も衰えたため、今では引退し、ここに流れてきた娼婦達をまとめ、世話人的な存在に収まっている。
 ラルがここに出入りすることに、マリアの気は進まなかった。第2次性徴期を終えた17歳の娘が受ける影響は、幼児期よりもむしろ大きいだろうと思ったからである。それでもラル自身はマリアも彼女たちも好きで、彼女らのボディーガードを引き受ける、という名目でしょっちゅうここに出入りしていた。


 アパルトマンの綺麗ではない扉を開ける。瞬間、誰かに飛びつかれた。
「えっ…リンダ?」
急なことに目を丸くしたラルがその娘の名を呼ぶ。
リンダは、ラルと普段から付き合いのある娼婦の一人である。
「ラルちゃんお願い、助けて!!」
「…早速仕事?」
抱き留めたリンダの肩越しに、マリアを見る。マリアはすまなさそうに頷いた。
 仕事とは、先述した娼婦と客とのトラブルシューティングの事である。暴力が絡んでいるときに、出張って行って、話を収める(大概の場合、実力で)のが、マックスから受け継いだラルの役目だった。つまり用心棒である。女達にとっても、ラルは娘であり妹でもあったから、喜んで稼ぎの一部を彼女の報酬に充てていた。
「はいはいはい、とにかく!何があったんだよリンダ。」
 ラルは自分の肩口で泣きじゃくる小柄なリンダの顔をのぞき込んだ。代わりにマリアが答える。
「この子、またやっちゃったのよ。」
「ああ。」
 その一言で、事情は大体飲み込めた。純粋そうなルックスの割にたいがいの事はOK…というリンダは、随分と人気があった。その分、予約だの順番だのをめぐるトラブルが後を絶たなかったのである。どうにもおっとりした性格の彼女が、スケジュール管理にきわめてルーズで口約束ばかりしているのにも原因がある。
「ま〜たダブルブッキングか。」
 リンダが泣きながら頷いた。客と行ってもバイエルンの住人だ。下手をすれば自分だって血を見ることになる。そんな連中相手に考えなしに客を取る軽率さが問題なのだ。
 かといって、彼女らを見下したり、呆れる気持ちにはなれない。何もない自分が体を売らずにいられるのは、彼女たちのおかげなのだから。ラルは本心からそう思っている。
「で、相手は誰と誰?」
「ウォルターとミゲル。」
「げっ!」
名を聞いて、さすがのラルの表情が引きつった。二人とも、街で名うての狂犬である。色々な逸話を持ち、片や185cm、片や190cmと、体格的にも不利である。
「あのさあ、もしかして、話し合いでどうにか…」
この際殺し合いでも有り難い、と思いつつ、訊いてみるが、リンダはクビを横に振るばかりだ。
「だって、ウォルターなんか、あたしのこと”殺す”ってTELしてくるし…」
「…どうにもならんか。…しかしあんなの客にするあんたの方が凄いような気もするな。」
「だって…」
「迷惑かけて悪いんだけど…お願いできる?一応マックスも呼んできた方がいい?」
「いや。仕事だもん、やりましょ。」
懇願するマリアに、こともなさげに返事をした。
「じゃあリンダ、バンテージ持ってきて。」
支持を受けると、リンダは手際よくラルの両手指にバンテージを巻いてくれた。こういう展開が日常茶飯事なので、必要な物は常備されているし、巻く方の手つきも堂に入っている。更にその上にレザーの指なし手袋をはめるが、今回の装備としては少々心許ない。プロテクターインのジャケットを着ておいてよかったと思う。
 両手を何度か握ってみて、感触を確認する。
「しかし相手が化け物だからなあ。二人で殴り合って死んでくれないかな〜。」
「それってさあ、もしかしてラルちゃんをどうにかしたいと思ってんじゃないの?」
今まで泣いていたリンダが、考えなしに発言する。
「ラルちゃん美人になっちゃったし、まだ処女だし。」
「あんたはもう!!」
あきれ果ててマリアが怒鳴る。
「誰のせいだと思ってんの!」
「まあいいって。そんならそれで、二度とちょっかい出したくならないようにするまでだ。」
ラルは立ち上がり、表のバイクをしまっておくよう指示をした。

「ねえ。下に人、集まってるよ。」
「またかい。」
ラルは特に窓下を覗いたりもしない。誰の差し金かは分かっている。エドだ。毎度のことだ。
 情報収集に長けているエドは、町中に張ったアンテナに儲け話のネタが引っかかると、即行動を開始する。マリアの所でトラブル発生ならば、当然ラルが出てくる。ラル対客の喧嘩に、見物人が集まる。で、テラ銭をとって、ストリートファイト・ギャンブルを始めるのがエドなのだ。ほんの数分間でお膳立てをし、オッズも設定する。決着がついたら再分配。あがった利益は、勝者とエドが山分けする。
 博打の胴元である。さっき説教したのと同一人物の行動とはとても思えないが、そういう男なのだ。根本には、商魂だけがある。
「これで引くに引けなくなったな。エドもやってくれる。」
「ごめんなさい…」
流石に、リンダも事の大きさに怯え始めたようだ。
「いいんだ。とにかく、あんたは絶対窓から顔を出さないこと。刺激するから。いい?」
「いつも悪いね、ほんとに。」
 ラルの後ろから、マリアがいつになく辛そうに言う。それは、ラルの門出を望む自分が、彼女を引き留めているという罪悪感を含むようにも聞こえた。
「見合うもんは貰ってるよ、マリア。」
とだけ答え、ラルは今やアリーナと化した階下の道路に降りていく。
 胸の所まで伸ばした砲金色の髪が、襟元からジャケットの中に収められた。