第一部 氷結都市(3)

 外には既に三、四十人の男達が集まってきていて、出てきたラルの全身を競走馬のように眺めたり、無責任な歓声を飛ばしたりしている。
「よおラルちゃん、今日も頑張ってくれよ!」
「今日のは、配当高いしなあ。」
「それだけ負けるかもしれないって事だろ。俺はミゲルに一万張ってんだぜ。」
「・・・やかましい、ヒマ人ども。」
辺りを見回しながら、ラルが怒鳴る。いつにもまして乱暴な言葉になっているのは、無神経な連中が気に障るのもあるが、既に戦闘態勢になっているせいでもある。
「どこから湧いてきたんだよ、見世物じゃないぞ!」
と言うそばから、エドが姿を見せたので、
(いや…見世物なんだな。)
と気が抜けていく。何だか腹が立って、わざと邪険なもの言いをしてやった。
「何しに来たんだ。ジジイは店番でもしてれば。」
「そう尖るなって。儲けは折半にしておくから。」
「ふ・ざ・け・ん・な。8:2だ。断りもなく仕組んでおいて、折半はないだろう。」
「じゃあ6:4だな。…オッズ聞くか?」
「聞かんでいいよ。…絶対8:2。」
「交渉してる時間はないみたいだぜ、ラル。」
 エドに言われて顔を上げると、いつの間にか問題の男がすぐそこまで来ていた。
「仕方ない、7:3だ。そういうことにしとけ。」
とだけ言ってすっくと立ち、何度か拳を握りしめる。
 エドの返事はなかった。

「ようラルちゃんじゃねえか。悪いがそこ通してくれ。話があってな。」
その男が近づくと、人垣の方が勝手に割れて、道を作ってやっていた。
 ミゲルはプエルトリコ系の風貌を持つ、2mに届こうかという大男だった。170cmそこそこのラルが口を利くには、顔全体をぐっと上げなければいけない。
「話って…リンダにかい。」
「そういうことだ。子供には関係ない、大人の話だからよ。」
「でも、子供にも立場ってもんがあるからね。どうしても通るってんなら、あたしをどかして行ってもらいましょうか。」
 決まり文句の啖呵をきる。切りながら、自分でも無茶な事を言っている、とは思う。
 野次馬達は、無責任に喜び、歓声やら指笛の音があがった。
 ミゲルの方も、ラルがそう出るのは十分分かっていてそう言うのだ。この大男には、それを楽しむ余裕がある。
「ラルちゃん、どうしてもやるかい。」
「こっちも仕事だしね。」
そう言い捨てて、ファイトスタンスを取る。
 ミゲルの顔には、状況を楽しんでいる色がありありと浮かんでいた。それに対するラルの表情も、幾分緊張はしているが、それでもいつも見せる、生まれながらに闘いを楽しむような不適さを帯びている。そんな構図にギャラリーは興奮し、一層にぎやかな歓声が飛んだ。

 それにしても、こう体格差があっては攻めの糸口がない。マックス仕込みのパンチも、顎にでも入れば自身があるが、リーチ差のせいでそうもいかない。出方を窺うしかなかった。
 不意にミゲルが片手で掴みかかってきた。かわしきれず、その手を両手で押し返すように受け止めて、突っ張りあうようなたいせいになった。それだけの力がラルにはあるが、相手のもの凄い握力に、手のひらごと砕かれそうに感じた。
 力が均衡した一瞬を逃さず、素早く手を振りほどき、反動を利用して、10cmほどバックステップした。遅れて着地した右足を軸に、鋭いスピンとともに、上段蹴りを入れた。
 左のしなるキックが、膝先から更にのびてヒットする。が、いつもなら首に入る攻撃が、堅い上腕部に当たる。実質ガードされたようなものだ。
「くっ…!!」
 ラルの口からそんな声が漏れたのは、そのまま左足を捕まえられて体ごと持ち上げられたせいだ。反動で下半身と上半身が入れ替わり、つり下げられる格好となった。足首を掴んだまま、弄ぶようにラルの体を20cmほど持ち上げて見せた。噂以上に凄まじい力だ。
 その刹那、
「ふッ!!」
 息吹一閃、自由になっていたラルの右足が素早く弧を描いて、膝下がミゲルの延髄部にクリーンヒットした。遠心力を利用した、ニール・キック風の技だ。上下の半身にバネがなければ、できるものではない。
 力はこもらなかったが、ヒットと同時にミゲルは衝撃で手を離し、次の瞬間にはキックの勢いのまま、ラルが器用に石畳に着地していた。
「…やるもんだな。」
 ミゲルが、一転して危険な表情で迫る。普通なら数秒は動けないダメージのはずなのだが、やはり効きが悪いようだ。
 繰り出されるミゲルのパンチを正確なガードとスウェーでかわし、掴みの手を弾く。一発狙いの大味な拳なので、ラルの動体視力と反射神経をもってすれば、対処するのは難しくない。しかしその威力の前に、ガードする手の方が参ってきていた。
「馬鹿っ、時間かけるな!不利だろ!」 
と、訳知り顔に飛んでくる野次。しかしその通り、持久戦でかなうはずもない。
 「この…!!」
怒号とともに飛んでくる強烈なストレートを、ガードしながら、わざと受けた。強化プラスチックのプロテクター越しでも、かなり効く。
 すると、作戦通りに、彼は顔面辺りに大振りのストレートを放ってきた。
(ほら来た!)
ラルは瞬間、すっと身を沈めてテレフォンパンチをやり過ごし、その反動でダッキングするような格好で、プロテクターの入った自分の肩を、激しく突き上げるように下からぶつけ、彼の右腕を殺す。
 のと同時に、自分の右で、ミゲルの心臓辺りに鋭い掌底突きを打ち込んだ。空手の技は不慣れだが、拳を壊すよりいい。
 ミゲルは、声にならない呻きを吐いて、棒立ちになる。この部位を強打されれば、どんな屈強な人間でも、瞬間的に動きを封じられる。その機に乗じて彼女はもう一発、今度は顎に見事なアッパーを入れる。
 脳髄の位置がずれるようなパンチを貰っておいて、しかしミゲルはまだ倒れない。
「いい加減に倒れろ!」
 目つきがしっかりしなくなってきたミゲルと正対したまま、ラルは動きを止めずに、その場で垂直に落下した。
 落下の一瞬、両手で彼の頭を掴み、渾身の力で、ミゲルの顔面が一番早く地面に接するように、腕から落ちる。
「はあッ!!」
 敵の顔を地べたに叩きつけた瞬間、思わずラルの口から激しい気合いが吐き出されていた。
 痛そうな音がした。はの一本も折れているだろう、と見る者は息を呑んだ。
 流石に今度は、すぐに起きあがってくる気配はない。だが、ここで手を休めたら負ける。
 俯せに倒れているミゲルに馬乗りになり、両膝で肩を封じ、足で二の腕を踏みつける。左手は後頭部を押さえつけ、右手で抜いたナイフを、首筋に当てた。そして訊く。
「…さあ、どうするミゲル?」
 その瞬間、勝敗は決まっていた。どうする、もない。このままナイフを引けば終わりだ。
 そして、居合わせた者全てが、ラルがそれに躊躇するとは思っていなかった。
「それでもリンダん所に行く?」
「いや…今日、は、よしておく。」
 ミゲルが苦しい息の下からそう言った瞬間、判定が出たギャラリー達は、どっと湧いた。
 「…と、いうことだな。…それとも続けて勝負するか、ウォルター?」
エドがギャラリーに向き直り、その中に当事者の一人であるウォルターの姿を認めて、そう言った。
「疲れてるから、今なら勝てるかもしれんぜ。」
「い、いや。俺もやめとくぜ、エド。」
ギャラリーの数にか、それともラルに恐れをなしてか、ウォルターはそのまま引き下がった。
「ふう、助かるよウォルター。…リンダに伝言ある?」
呼吸を整えながら、ラルが話しかけた。
「いや特に…出直すって、伝えてくれ。」
「OK。」
 そう言って、ラルはさっきの取り分の確認もせず、またマリアのアパートに入っていった。

 (バレたらまたマックスに怒られるだろうな…どうせバレてるか。)
マリアの所で着替えとシャワーを借り、またモルフォにエンジンをかけながら、そんなことを考えていた。これが彼女の日常だった。
 この仕事がいいのか悪いのか。タチの悪い客が根元だが、かといって、買い手がなくなれば、マリア達も商売にならないわけだし。そんなことも考えた。いずれにしろ、この仕事が、娼婦のお零れを貰っている蠅叩き役であることに変わりはない。
 バイクを出そうとした瞬間、急に正面に飛び出した人影があって、慌ててブレーキを踏んだ。
「あ…危ないな、もう!」
「あなた…ミス・クラインですか?」
怒鳴りつけられたのを全く意に介せず、その男が話しかけてくる。
「そうだけど…何か用?」
バイクには乗ったままで、ラルは怪訝そうに聞き返した。
「失礼しました。私、ジェイク・エッカーマンと申します。」
そう言って差し出された名刺には、彼の肩書きと氏名が書いてあった。
「コーンウォール陸軍総務部…ふうん、道理で見かけない顔だと思ったよ。」
それで何の用か、と尋ねるより早く、エッカーマンは切り出した。
「実は私、傭兵部隊の方のスカウトをしてるんですがね。…どうです、興味ありません?」
「はああ??傭兵?…あたし?…いや、兵隊さんを『お慰め』するんだったら、ここの中にいい人材が…」
ラルは混乱しながらも、マリア達の小ビルを指さし、茶々を入れた。
「傭兵として、ですよ。実はさっきのファイトを偶然見てまして。」
「…あれ?アレはただの喧嘩でしょ。あたしのは自己流だし、軍隊流なんて知りませんよ。」
「当然新兵訓練はしますよ。ただ、白兵線が中心任務の部隊ですから…要は、素質とセンスなんですよ。」
 話を聞きながら、エッカーマンが自分をやけに真剣に口説きにかかっているのを、不思議に思っていた。
 年の頃は40そこらだろうか、今は内勤らしいが、嘗ては命を張って戦っていた人間に違いない。
 自分がまだ知らぬはずの戦場のにおいを彼に感じ、そう思った。その男が、初対面の自分をこれほど見込むというのは、何だか納得がいかない。
「腕っ節の強い連中とか、軍隊崩れだったら、沢山いるよ。ここにはね。」
「そうでしょうがね。ですが…」
エッカーマンは、改めてラルを見つめて、こういった。
「お気を悪くされるかもしれませんが、貴方が『傭兵向き』のように見えたものですから。」
「と言われても、よく分からないけどね。」
 初対面の人間からそう言われても、ラルとしては笑うほかない。
「まあ、言われてるうちにそんな気もしてきたかな。でも、どっちみち、あたしは当分、ここを離れられない事情があるから。」
「そうですか。」
「じゃ、他を当たってください。」
「いえいえ、私は二週間ほどここに滞在しますので。あの、夜は大抵ミスター・エドの所にいますから、その気になりましたら宜しく。」
「は?」
「では失礼しました。」
 用件を言うだけ言うと、エッカーマンは早速夜の闇に消えていった。その背中が何とはなしに妙に革新的に見えて、やけに気になった。

 傭兵。
 その言葉に、昨夜確かに、胸の何処かがざわついたのだ。あのエッカーマンという男は、自分でも気づかないそんな波紋を見透かしていたのではないだろうか?
 起き抜けから、ラルはそんなことを考えていた。
 惑星コーンウォールは、バイエルンから随分遠い。その星で一年くらいから内戦が起こっているというニュースは知っている。聞いたことがあるのはそれだけだ。
 トニーは、まだ寝ている。たまに痛みのせいか、かすかな呻きを上げる他は、昨晩もいつものように静かに眠っていた。夕べのことは、彼には言えないと思った。先が短いと知っていて、心労をかけるようなことはとても言えない。
 一緒に朝食を取るため、マックスの部屋に行く。そこで、
「昨日さ、いきなり傭兵にスカウトされちゃってさあ…」
さりげなく切り出したつもりだったが、マックスはいきなり目の色を変えてきた。
「ようへ…何だとォー?!」
「いや、勿論、断ったけどもさ。」
「本当か?」
「ほんとだって。トニーのこともあるし。ねえ?」
「…俺達はなあ、何も…」
そんなものにさせる為にお前を育てたんじゃない、とこみ上げてくるのを、マックスは咄嗟に飲み込んだ。それは彼らが「決して言うまい」と誓った言葉だった。
 飲み込んだので、ラルにもマックスの真意が、痛みを伴って伝わった。
 だからその話題は、それ以上続かなかった。
 自分は、惹かれているのかもしれない。そう思った。

 「なあラル。お前、なりたいものってないのか。」
 薬を飲み終えたトニーが、そう話しかける。次の日の夕方のことだった。
「え?……んー、いや、別に。」
「話、聞いたぞ。マックスから。」
「…いやあれは、ただのハナシで…別に、なりたいとか、そう言う訳じゃ…」
「------どんな仕事だっていいじゃないか。俺達に気兼ねするなよ。」
「え?」
予想外の言葉に、つい聞き返してしまう。
「なぁ、17年前に俺が気まぐれで拾わなかったら、お前は生きてなかったかもしれん。でもそれは、お前の運なんだ。それだけだ。」
「…」
「俺達は、親みたいかもしれないが、親じゃないんだ。…それは分かってるな?」
 当たり前のことだったが、改めて言われると、何か寂しいものがあった。それを見透かして、トニーが続ける。
「本当の親子だってそうそう意見が合うわけじゃなし、な?…いいじゃないか、したいことをすれば。」
「いや、だからほんと『したい』って程じゃないんだって!」
「興味はあるんだろう。やってみて、思ったのと違ったら、やり直せばいい。それだけだ。でもな、ラル。」
「何?」
「どのみち一回はバイエルンを出てみるのがいいと思うんだ、俺は。…そして、やっぱり戻って来たくなったら、そうすればいいんだ。」
「そうだね。」
一気に喋ってしまって疲れたのか、一呼吸おいて、トニーはまた語り始めた。
「色んな事がさ、あるよ。」
その言葉が向かっているのはラルか、それともトニー自身なのか。
「バイエルンにまで流れてきて、後はボロ犬みたいに生きて死ぬだけだと思ってたけど、マックスとかお前に逢えて、楽しかったしな…何とかなるもんだ。」
「そう?…そうかもね。」
 微笑んだトニーにつられて、ラルも笑った。
 実のところトニーは、今のうちにラルに話しておくべき事--マックスにすら話したことはないが、ラルには言っておきたい様な事--があったような気がしていた。しかし、満腹のせいか薬のせいかひどく眠かったし、気分もいつになく静かで安らかだし、それにラルも微笑んでいることだし(美しい笑みだ)…まあこれでいいか--と、トニーは思った。

 トニーが鬼籍に入ったのは、その次の日だった。或いは夜中の事だったかもしれない。
 朝、ラルが部屋に入ったときには、既に息絶えていたのだ。その顔は実に静かなもので、眠っているようにしか見えなかった。そんな安らかな様子で、夜にも鼾一つかかなかったのに、それでも彼は死んでしまっていたのだ。
 その日のことは、ラルは良く覚えていない。
 不思議に涙が出なかったのは覚えている。悲しみ、というよりとにかく空虚な気持ちがあったことも記憶にある。
 だが、人の死のあっけなさを思ったこと。そして、号泣するマリアや娼婦達の姿を見ながら、自分には涙とともに悲しみを感じるまっとうな心がないのだろうか、それはバイエルンで育ったせいなのだろうか…等と思ったことは、あまり記憶にないようだ。
 放心状態の中、トニーの穏やかな人柄をしのぶ人達が、数人部屋を訪れた。その他の記憶は、欠落している。
 ただ一つだけ思い出せるのは、『とにかくバイエルンから出てみろ』という遺言だけは実行しようと決心したことだ。

 漸く落ち着いた頃、マックス達に真意を打ち明けた。
 傭兵になることにした、と言っても、マックスもマリアも、今度は何も言わなかった。ラルの決意を認めた、というより、トニーの意志を尊重しているようだった。それだけトニーの死が落とした陰が大きかったという事だろう。
 ラルはその日のうちにエッカーマンに会いに行った。そして、契約は二年が基本であること、それ以内に戦役が終われば、その日を以て満了とすること、自主的な除隊は基本的には認められず違約扱いとなること等を確認して、必要事項とサインを書き入れた。
 彼女に執心かと思われたエッカーマンの反応は、案外淡々としていた。それでもラルがまだ17歳と知ると、流石に驚きを隠さないようだった。
 出発は、エッカーマンがここを離れるのと同じ日に決まった。十日後だが、身の回り品も少ないのでこれと言った準備も必要なかった。それに、トニーが死んでまだ日が浅いこともあって、部屋を片付ける気もおこらなかったのだ。

 先に何もなくなってしまったのは、マックスの部屋だった。
 トニーの死、ラルのコーンウォール行きに続いて、マックスまでもが別の土地に旅立つという、突然の連続は、マリアを始め周囲の人間を戸惑わせた。が、彼はお構いなしに、さっさと渡航手続きを済ましてしまっていた。
 彼が言うには、ずっと前からオファーのあった、ボクシングジムのトレーナーの仕事を受けることにしたらしい。
 「だからって、こんなに急ぐことないだろ。」
大きくもないバッグ一つでターミナルに向かう彼の後ろから、ラルが言う。
「なんとかは急げ、っていうだろ。…実際、トニーも死んじまったし、お前もいなくなるし、な。…前からあった話なんだが、きっとお前らのことがなかったら、踏ん切りつかなかっただろうな。」
「マックス…」
「まあ、あれだ。俺がいなくなりゃお前も寂しくなって出て行くんじゃないかと思ってよ、ずっと前から決めてたんだよ。俺より後に出てくのはお前の勝手だ。な?」
 それだけ言うと、彼はラルに随分な額の現金を渡し、去って行った。
 別れの言葉にマックスは振り向かず、ただ右の拳を力強く挙げてラルに応えた。
 嘗て『黄金』と賞されたその拳が、その背中が、ラルに笑いかけているような気がした。

 コーンウォールに行く便の出航は、夜だった。
「いいよ、見送りなんて。」
「そう言わないでよ。」
照れるラルに、マリアが言う。
「マックスは送らせてくれなかったんだから、あんたの位、させなさい。」
「わかったわかった。それにしたって、大袈裟なんでないの。」
と言って、座っている大テーブルの面々をずらっと見渡す。マリア、エド、それに娼婦達の総勢十数名が、今エドの店で一緒に夕食をとっているのだ。
「ラルちゃん、ほんとに行っちゃうの?」
今にも泣き出しそうな顔で、リンダが引き留めにかかる。
「もっとお給料だって出すのに…」
「いやリンダ、金がどうとか、そう言う問題じゃないんだ、全然。」
「だって…」
「悪いね、皆の事はエドに頼んでおいたから。用心棒みたいのが必要だったら言うといい。」
「ねえ、戦争終わったら、バイエルンに帰ってくる?」
リンダの瞳が涙で膨らんでいるのがたまらず、ラルが慌てて応える。
「約束する。他に帰るところなんてないんだし。」
「バイクは?」
「持ってってもしょうがないからね。エドに預けて、たまにメンテして貰うよ。まだ値段分乗ってないし、勿体ないじゃない。」
「そう思うんなら、まず生きて帰ってきなさいよ。」
「そうよ、でないと、エドなんか他の人に売り飛ばしちゃうわよ!」
「そいつは勘弁だな。」
と言って、ラルは娼婦達とひとしきり笑いあった。
 「そうそう、売っちゃうよ俺だったら。」
話題に併せるかのように、背後からエドの声がした。
「ラル、エッカーマンさんが来とるぞ。」
「あ、もうそんな時間か。」
 立ち上がって歩き出すと、全員が付いてくる。ターミナルの中まで付いて来そうだったが、いくつか挨拶の言葉を言って、店の前で分かれた。
 朝から快晴で、星がよく見えた。
 マリアの声は震えていたが、ついに涙を見せなかった。

 出港手続きをしてしまえば、後はエレベーターで目指す階に行くだけである。
 一生眺めるだけだと思っていたターミナルビルのエレベーターに、ラルは今エッカーマンと二人で乗っていた。
 憧れるでも、諦めるでもなく、ただ自分とは無縁なものとして見上げていた高い城。そこから初めてラルは、ろくでもない人々が住む町の暗い灯りを眺めていた。
 強化ガラスに手を当て、張り付くようにしている、その姿がまるで子供のようだ。
「高いところは苦手ですか?」
エッカーマンが尋ねる。
「生まれて初めてだけど…大丈夫みたい、です。」
 目が、眼下の風景を追っている。今までは、棄てられた薄汚い町並みだと思っていたけれど、こうして見ると、当初の制作意図のように美しかった。
 そうやって凝視している光の粒が小さくなって点の群になった時、エレベーターの扉が静かに開いた。

 『高い城』から更に遠くへと歩みを促すその音を、ラルはまだ背中で聞いていた。

(第一部・了)