第二部 遺産都市

第五章 傭兵の条件(1)

 
 こうやって、壁を見つめて横になって、何日経つだろう。
 ラルの上半身は包帯で固定され、患部のある背中をベッドに付けないようにして、ひたすら横を向いて寝ている。運動も出来ないので、座学のテキストや、関係のない本を読んで過ごしていた。
 自分の呼吸が、いやに意識されてならない。調整してもtらっている筈なのに、吸気の度に、乳房が包帯に圧迫されて、鈍く痛んだ。
 開いている本から少しでも意識が逸れると、頭に浮かぶのはこの傷のこと、いや、この傷を与えて去ったディーヴァ・サキオンと、あの戦闘の記憶だけだ。あの時は、純粋な脅威、恐怖、死の覚悟。しかし今は、弄ばれた屈辱感と焦燥、そして無力感だけが、激しくラルを苛んでいる。
 まったく、噂通り、あの男は傭兵として天才なのだ。彼にあったのは、自分のステージにいるという心地よい緊張、敵への好奇心、鍛錬を経た己の肉体と技量への信頼。見事なほどに、闘いを楽しんでいる。痛いほど伝わってきた、生と死への余裕。
 あれは一体、何だったのだろう。
 そして、どの瞬間を切り取ってみても、ディーヴァはラルを簡単に殺せたのに、結局徒に傷跡を与えただけで、去っていった。
 あからさまに優位にある者が、退屈しのぎにからかっただけなのか。
 そう、あの時の彼の表情は、楽しそうを通り越して、嬉しくてたまらないといったものだった。思い出すだけで、手の平に冷たい汗が滲んでくる。
 何故、殺さなかった?

 「やっと逢えた。」 

 最初の言葉が、何度も、破れた鼓膜が塞がっていない耳で再生される。
 宙に浮いた意識を、再び開いた本に戻そうと、ラルは反対側に寝返りを打ち。
傷の痛みに、一瞬顔をしかめた。

 酒なら、士官室のボードにも十分に入っている。
 しかし、桜井も根っからの軍人というわけではない。全く軍服連中のいない場所で飲みたくなるときが、たまにある。
 さほど普段と代わり映えするわけではないが、一応私服のシャツに黒いネクタイを申し訳程度に締め、一人で緩衝地域にあるバーに足を向けた。小さな店構え、地味な看板に「モリガン」と表記がある。小さな窓から漏れる照明は、少し黄色くくすんだ色合いで、明るすぎない。こういう雰囲気は好きだ。
 扉を開けると、奥に知った顔の客がいるが、特に挨拶はしないで、カウンターに着く。
 何度か来ているので、バーテンとも顔は見知っている。
 親しげな夜の挨拶をするでもなく、ちらっと目を合わせて、マッカラン、と注文を呟く。初老のバーテンは、かしこまりました、と答えた。
 口数は少ないが、客の顔と、以前の注文をしっかり覚えている優れたバーテンダーである。恐らくは、マッカランの中でも12年もの、そして氷を入れずにストレートで、チェイサーを添えて出してくれる筈だ。桜井は、こういう店を好む。
 「ひでえなあ桜井さん、無視しなくてもいいでしょう。」
さっき認めた「知った顔の客」に声をかけられて、桜井は明らかに気分を害した色を顔に出す。
「緩衝地域で飲んでいるときに、やたらに声をかけるもんじゃない、サキオン大尉。」
 顔見知り、とは誰あろうディーヴァだった。こういう場所でまで敵対する必要もないが、話を交わす気はしない。それに----あんな事の後だ。
 数人いた客が、それとなく二人に注目する。
「……ほら、他の人が引くじゃないか。大体、こういう場所でまで軍服を着てるのは感心しない。」
 厭だ。若い男に酒場のマナーを説教するなど、自分が老け始めていることを喧伝しているようなものだ。
 桜井は、個人的な感情ものを言うなら、この男がはっきりと嫌いだ。能力は高く評価している。無頼なのはいい。不遜な態度も、力相応である。しかし、余裕を振りかざしながら、他人の中にずかずかと乗り込んでくるような所があって、たとえ同軍に籍があったとしても好きになれないタイプである。
「ははっ、申し訳ない。あんまり私服がないもんで。……ところで、どうです一杯。オレのボトルで良ければ。」
「とりあえず、オーダーのを飲んでから考えよう……で、俺と何が話したいんだ、サキオン大尉?」
「分かってるんじゃないですか?……いや、あの子。ラルとか言いましたっけ。その後如何です?」
「悪趣味だな。自分で加減したなら、傷の具合くらい分かるだろう。……何で名前を知ってる?」
「あの時、貴方が叫んだんですよ、桜井さん。」
と言って、ディーヴァが自分の煙草に火を付け、大きく一呼吸する。
「血相変えてね。」
 桜井は、一瞬眉間の皺を深くする。答えない。
「こっちじゃちょっとした話題ですよ。あの、鬼の桜井が女を採用した、ってね。」
「成り行きだ。俺の意向じゃない。」
「ま、そんなとこだろうと思ってました。」
 カウンター越しに置かれたグラスを受け取り、香り高い琥珀色の酒を一口含み、桜井が言う。
「で?戦場の悪魔ことサキオン大尉が、何であんな子供にこだわる?あれはまだ、見たとおりの毛が生えた素人だ。なっちゃいない。」
「まあ、現時点ではね。」
「あんなのをマトモに相手していたら、貴様の輝かしい戦歴に傷が付くんじゃないか。」
桜井の口調は、あくまで不機嫌さを匂わせて慇懃である。
「桜井さん、そんなに自分の部下を卑下するもんじゃない。あの子は、こういう場所で生きるべき人間だ。資質が光ってるのを、一緒にいるなら分かってる筈だ。」
「……俺は、根っから軍人じゃない。」
「俺には、分かるんだよ桜井さん。」
「で、あいつに何をするつもりだ。」
 潜めたはずの声が、妙に響いた。その日初めて、桜井の目が、正面からきつい光でディーヴァを捕らえる。
「あの子こそ、俺が探し求めていた人間だ。」
 ディーヴァの瞳が、真正面から桜井を射返す。その言葉の意味が、桜井には理解できない。
「……何?」
「俺はあいつに言った。”俺がお前を殺す人間だ”とね。……俺はねえ桜井さん。あんたには出来ない方法で、あいつを俺の所に引き上げて、魂を俺の事だけで一杯にしてやって、そして、殺す。殺します。」

 何を。
 この男は、何を語っているのだ。
 偏執狂と呼ぶしかない拘りが、あの一夜で生まれたというのか。
 若い虎の静かな語りは、桜井の理解力を軽く凌駕する。

「それなら、何故あの時に殺さなかった!」
思わず語気が荒くなって、桜井は煙草をくわえ、平静を保とうとする。ディーヴァの差し出す火を拒み、自分のオイルライターで先に灯をともす。
「あいつは今、素人なりに、それで憤ってる。……そういう真似も全て、貴様の趣味という訳か!」
「怒ってますか。そりゃ、思った通りだ。そうでなくては。」
「貴様……!」
 一瞬、桜井の前進に若々しい怒りが走った。
 気にくわない。これではまるで、全てディーヴァの思うがままではないか。
 こんな場でなければ、襟首を掴んで殴り倒しているところだ。
「これだけは言っておく。サキオン大尉、貴様が何を考えてようと、俺の部下は俺が守る。この前のような不覚は、二度と取らない。……いつか……あいつをいたぶったことを後悔する時が来るぞ。」
「上等ですよ。」
 ディーヴァは、実に満足そうにそう言うと、自分のグラスを煽って席を立った。
「じゃあまた、桜井少佐。」
 彼は、かといって店を出るわけでもなく、遠い席に、桜井に背を向けて座り、結局それから一時間も飲み直していた。その間、二人は一度も視線を相手に向けなかった。
 桜井のグラスは、それから三つ重なった。
 その日の酒は苦いだけで、芳醇なはずのマッカランも、微塵も彼を酔わせることが出来なかった。

 それから、二週間が過ぎた。
 三十何針も縫った傷跡は範囲こそ広かったが、幸いに深さは大事なく、神経の切断も問題なかった。抜糸が済み、ごく軽微な痛みと、傷口が引きつれる感覚は伴うが、漸く体を動かせるくらいに回復した。
 背中一杯に刻まれた傷跡を見て、ヒルダ辺りは相当騒いだが、ラル自身は彼(女)とは違って、女性は美しくあらねばという考えはないので、静かなものだった。
 午前四時。
 昨日はスクランブルもなかったので、起きてる連中もいないだろう。朝のトレーニングに励む者達も、まだ起きてこない。ベースが一番静かな時間帯である。
 ラルは、第3ジムに向かった。この数日、所内リハビリをしながら目を付けておいた場所である。
 第3ジムの東側は一面ガラス窓になっていて、初夏の太陽が昇り始めているのか、ほのかに明るい。地球型の星では、こんなに日が早く出るとは、知らなかった。照明を点けて、誰かに気づかれるのは嫌なので、あえてスイッチは入れない。
 この部屋は、もともと高校のダンスやバレエの部活動のために作った部屋なのだろう。舞踊に丁度適した板張りになっていて、南側の壁は大きな鏡、そして二つの壁に3段のバーがある。
 このバーを見て、ラルは無性に懐かしさを覚えたのだ。彼女の養父、トニーの部屋がそうだった。その彼から、ラルはバレエの基礎を教わって、膨大なビデオディスクのコレクションから、様々な演目と踊りに触れ、時には興味の湧いた役柄のソロを教えて貰ったこともある。それを職業に出来るほどだとは、ラルもトニーも思っていなかったが、踊ることは好きだ。
 ずっと運動していないこともあり、バーレッスンだけでもやりたくてたまらなかった。
 柔軟体操。
 バーを両手で掴み、体を落として開脚。バーが軋む。
 体を動かしているうちに、気持ちよく汗が湧き、関節が軽くなる。ずっと使っていなかった踊り用の筋肉が、喜んでいるのがよく分かる。
 思ったよりも、傷は痛まない。少しくらいなら大丈夫だろう。
 誰もいないのを改めて確認して、深呼吸してバーに立つ。背筋が勝手に伸びる。一番(動作(パ)の基本形の一つ)の足。
 ただのダンスシューズだからポワント(トウで立つこと)が出来ず、大きなパもピルエット(旋回)も出来ないし、音源もないが、通して踊ってみたくなった。
 頭の中で、ハープのアルペジオが鳴る。カミーユ・サン・サーンスのメロディ。「瀕死の白鳥。振りも全部入っているわけではないが、どうでもよかった。
 腕のさざめき。足が床を掴む音。久しぶりなのに、体が気持ちいいほど柔らかく動く。

 その時、偶然桜井が聞きつけたのは、床を掴み、離れ、時に擦る足の音と、息づかいの奏でる音楽だった。
 風呂帰りの彼は、朝の薄明にぼんやり照らされて、白鳥を踊る彼女の姿を見た。
 バレエなど、間近で見るのは初めてだった。人間の体が、予想を超える動きをしている。ここまでだろう、という所で、もっと背中が反る。もう上がるまいと見えたアラベスクの足が、さらにぐっと上がる。見事なものだ。
 それよりも。頭の中の音楽で一心に踊るラルの表情。
 もともと両性具有的な美を持ち合わせたその美貌が、今は幻想的ですらある。白鳥、とまで桜井に伝わったかどうか定かではないが、なにやら人外の存在を思わせずには置かない。普段の物怖じしない表情とも、挑むような顔付きとも、時折の遠い目とも、全く違う。こんな表情が、この少女には隠されていたのだ。
 そして、細かく表情を表すしなやかな腕、緊張しつつも美しくしなる足。分かりやすい、肉体の美しさ。
 この情景が桜井に叩きつけるものは、彼女の圧倒的な美と----その可能性である。選択肢が、他にもある。そういう事実である。
 ラルが、アラベスクの長いバランス。そのまま足を高く挙げていき、合わせて背中を後方に反らす。追うように右手を上げ、視線をやる。
 が、そんなポーズが今のラルに出来るわけはない。
「あ……つつつっ!」
 苦しげに声を出して、弾かれるようにバランスを崩し、蹲った。
「おい、大丈夫か!」
 覗いていたのを忘れ、桜井が駆け寄った。前から体を支えてやる。
「傷口でも開いたか?」
「いや……大丈夫です、瞬間的に痛かっただけで。」
「そうか……全く、こんな体で無茶するなよ。」
「はい…………ええっ!?」
 ラルが、真顔に返って、いつになく一瞬で赤面した。
「さ、桜井さん!!いつから覗いてたんですか!ひどい!」
「覗きとは何だ。」
「バーレッスンから見てたんですか!!」
「いや。多分途中から。」
 ともに傭兵をしている連中から見られたい姿ではない。どうしてここまで顔が赤くなるのか分からなかったが、ラルは不意を突かれて大いに照れた。とりあえず、慌てて桜井の支えから離れる。
「しかしお前、こんな特技があったのか。」
「特技なんて言えるものじゃないです。……遊びですよ、こんなの遊び程度。」
「そういうもんか?……まあいい。」
桜井は、ラルから少し離れ、息を吸った。
こんなイレギュラーな時間では相応しくないが、多分、言うのは今しかない。

「昨晩、本部との会議で決定したことだ。
 お前を、解雇する。」

 自分の声は、どうしてこんなに響くのだろう。
 それが、桜井には辛かった。