安達が原[壱]:徒波(あだなみ)の男
実にわび人の習ほど 悲しきものはよもあらじ
かゝる憂き世に秋の来て 朝けの風は身にしめども
胸を休むる事もなく 昨日も空しく暮れぬれば
まどろむ夜半ぞ命なる あら定めなの生涯やな能「安達が原」 シテサシ
あの「渦」の中に飛び込んで、意識が戻った時には此処に居た。
今自分が存在しているこの時空間は、どうやら「元」の世界とは何もかも違っているらしい。その事をはっきり把握するまでは、隼人の明晰な頭脳をもってしても、数時間を要した。
もっとも今現在とて、具体的な事は何も分かっていないのと同様ではある。
気が付いた時に確かに理解できたのは、「ひどく暗いから夜なのだろう」という一点だけ。
月は雲に隠れて朧に霞むのみ。倒れ伏してていた彼を隠すようにして、背丈の高い草が茂っていた。
最初はススキかと思ったが、よくよく見れば葦の類のようだった。
濃厚な靄がゆっくりと流れながら、辺り一面を広く包み込んでいる。
湖なり川なり、大きな水場が近いのだろうかと思いながら、ゆっくり立ち上り周囲を見回す。
そこで初めて、目の届く範囲にはゲットマシンは無く、自分が身一つで放り出されていた事実に、隼人は気付いた。
「……りょ、竜馬?弁慶!居ないのか?!」
何度か名を呼んでみたが、返事どころか、気配すらない。
マシンの影がない代わりに、瓦礫や残骸のようなものも見当たらないことに、どこかで安堵しつつ、とんでもなく遠い所に墜落しているのかもしれないという不安も胸をよぎった。
自分の身体とは言えば、おそらく「マシンから投げ出された」状況にあったにもかかわらず、打ち身や骨折を思わせる痛みはほとんど無く、むしろうっかり寝過ぎてしまった翌日のような気だるさと重さ、微妙な関節の軋みを覚える程度。それもまた不思議な事だった。
重い頭でぐるりを見回す。
右手奥には、黒い山影。麓には人家の灯りのようなものが僅かに見える。
そして左側。
思ったより遠くに、ではあるが、靄の源かと思しき、微かな湯気のような白い気の立つ水面がある。そして遠い波の音。
ぼやけた月影がわずかにその表面に照り光っている。
池や沼、と呼ぶにはかなり大きい。湖なのだろう。
少しずつ、記憶が蘇って来る。
そうだ。俺達は確かに、割れた琵琶湖の底に突入し、その中に、平安京によく似た条里、けれども明らかに禍々しい、「遺跡のような何か」を発見した。
同時にその「上」に出現した「渦」に飛びこみ、一度分離してゲッター1にチェンジし。
何色にも切り変わる光の粒子、その激流に巻き込まれ、それが弾けて、モニタも何もかもが、瞬時にホワイトアウトした。
そこから先は、何も覚えていない。
----ならば今、左手に見える大きな水面は、琵琶湖のそれなのだろうか?
周囲を警戒して歩きながら、隼人は何か地理状況が分かる物----看板や立て札の類を探したが、一切見当たらなかった。
というよりも、もしここがよほどの寒村だったとしても、一応交通のありそうな道筋に出てまで、街灯も電柱やガードレールの類もない。それどころか、舗装されてさえいない。
ここは、何処なんだ?
いや----認めたくはないが「現代」を感じさせる要素が、今のところ一つもない。
ならば----この時間軸上の位置は、「いつ」なのだろう。
それにしても冥い。とにかく暗い。
暗く霞む月の朧な光、そして辛うじて身に着けていた通信機兼用の時計盤で所々光る夜光塗料の点だけが、灯りと呼べるものだった。
浅間山麓に居を構える早乙女研究所は、人里からはそこそこに離れた立地である。
東京育ちの隼人は、そこに住むようになってから初めて、街灯や店の看板灯がない夜がどんなに暗く、月の光が頼もしく、空には本当は多くの星が瞬いているか、ということを知った。知った気でいた。
けれども今の状況に比べれば、研究所の夜など、廊下やらデータルームから漏れる光、そして外部のセンサーライトや常夜灯の光で、まるで昼のようなものだ、と思える。
せめてもう少し晴れてさえいれば、月や星の位置で大まかな方位や時間の見当も付けられるのだが、今はそれすらままならない。
腕時計の強化ガラスには無数のヒビが入っており、しかも水滴で曇って何も見えなかった。
一縷の望みで、石で慎重に叩いて砕き割ってはみたものの、分針は曲がって抜け落ち、他の針も動いているようなムーブメント音は一切しない。
こうした極限状態に強い、耐水耐圧の電波アナログ時計ではあるのだが、ゲッターの計器類が揃って異常を示すほどの強い電磁波の渦の中では耐えられなかったのだろう。
今となっては、ただ文字盤の塗料が、死にかけの蛍のようにか弱く光るアクセサリーに過ぎないが、この状況にあってはそれですら、なかなかに頼もしい同伴者と呼ばなければなるまい。
今この時刻が夜半過ぎと仮定した場合、月の位置から考えると、湖と思しき場所はここから大体北西の方角と推測される。。
もしそれが琵琶湖であれば、隼人は南東方面から、そちらを目指して歩いている、ということになる。
だとすれば現在地は長浜……いや、彦根に近い辺りか。
元より中部、関西の地理には詳しくないので自信がない。
それ以前に、果たして21世紀の地名に当て嵌める行為自体に意味があるのかどうか、 そちらの方に不安が募る状況ではある。しかし少しでも現状を把握することは重要だ。
自分に言い聞かせるように、再び空を睨む。
不意に叢雲が割れるように流れ、月の輝きが露わになった。
血、というより臓物を思わせる赤さ。それはどこまでも、禍々しい色だった。
その月の姿に、無数の小さな黒い影がかかる。
細い影は、動きながら次第に大きくなる。
二つの弧を持つ影。それは、翼の形だった。
この姿を見るのは、初めてではない。
隼人は反射的に、葦原の中に再び飛びこみ、身を低く屈めながら、こちらに飛来する「翼ある者たち」の姿を視認しようとしていた。
群れ飛ぶその影は、遠くからは鳥のように見えたが、鳥ではない。
長い翼を持ち、人に似た手足を持ち、そして額には大きな角を、人を引き裂いて食らうための爪牙を生やした者たち。
それは間違いなく、鬼の姿。
隼人たちが何度も出会い、そして戦いもした、飛行能力を持つタイプの鬼であった。
彼らは高い葦の陰に隠れた隼人には気付くことなく、編隊を成して、東(と思われる)の空へと飛び去って行った。
かなり上空を、高速で飛んで行ったにもかかわらず、その後には鬼特有の、なんとも生臭くひねた悪臭が鼻の奥を刺す。
生理的嫌悪感、どころか、明確な嘔吐感さえ催してしまいそうになるこの臭い。これは確かに、隼人の知っている鬼のそれと全く同じものだった。
現状をリサーチするのはとりあえず、夜が明けるまで待つしかない、と腹を決めていた。
しかしその前に一つだけ、
「ここがどこで、季節、そして時間がいつであろうとも、取りあえず自分の知っているのと寸分違わぬ姿の鬼が住む世界である」
という点だけは、早くも明らかになったのである。
ともあれ、この群青のパイロットスーツ姿では、例えここが現代日本であろうと、人目を引き過ぎてしまうのは必定。
目立たぬ夜のうちに少し歩き、適度に人の住んでいそうな場所まで辿りつけたら、身を隠しながら辺りの様子を窺う事に決め、隼人は慎重に歩き出した。
----もっとも、この世界に、鬼だけでなく人間が住んでいれば、の話なのだが。
パイロットスーツのサバイバビリティの恩恵も勿論あってのことなのだが、暑くもなければ、肌寒さはあるが戸外で夜を過ごせないほどでもない。
春か秋なのだろうとは思っていたが、どうやら秋のようだった。
空は高く、木々の葉もまだ紅葉には至っていないが、どこか盛りを過ぎて水気が抜け始めたような節がある。
それより何より、田の稲が、まだ黄金色や稔りと呼ぶには遠く、垂れることなく空に向かってピンシャンとしてはいるが、その穂の形をはっきりと見せ始めている。
空が白み始めた頃にしばらく歩き、田畑の存在に気が付いた時、隼人は大きく安堵した。
何らかの耕作地があるのなら、少なくとも人間がいて、生活しているということ。
つまり、少なくとも「此処に住んでいるのが鬼だけではない」事実を意味するからだ。
そして周囲が明度を増すに付け、もう一つの決定的な現実を、次第に実感せざるを得なくなった。
やや遠くに展開する人里。
その佇まいはどう見ても、現代のものではない。
それどころか、映画やテレビで目にする江戸、あるいは戦国時代のそれよりも格段に古いような印象。
突入の前に湖底で見たあの不思議な廃墟は平安京に似た構造だった。
だからといって、まさか今が平安時代……というような安直な状況でもあるまい。
つらつら考えながら歩いているうちに、あっという間に日は上がり、早速男も女も日々の生活の仕事を始め出してしまう。
多分まだ、朝の5時を少し回ったくらいの時刻だと思うのだが、「朝日と共に動き出し、日が没すれば休む時間」というような時代であれば、ごく普通のことなのだろう。
状況も分からぬうちに往来を闊歩して、目立ってしまうのは得策ではない。
隼人はとりあえず、日が落ちるまで、人里の中の目立たぬ場所に隠れて周囲の状況を分析することにした。
集落の畑から少し小高い丘に登ったところ。
そこそこ樹齢のありそうな広葉樹と、その根元に小さな祠があった。
鳥居のようなものはなく、二本立った杭のような木の間に、藁で作られた注連縄のようなものが渡されている。
神道で系統づけられた神社というよりもっと土俗的な、「塞の神」といったものなのかもしれない。
程良く古びていて、毎日人が世話しに来るような雰囲気ではなく、一日身を隠すにはうってつけだった。その上、村人が行きかう脇道に近く、人の姿や話し声を見聞きすることもできる。
扉は外側からごく簡素な閂をかけてあるだけで、誰でも簡単に開けられた。
中は埃臭く、蜘蛛の巣や雨漏りの後、鼠などが生息していたような形跡もあるが、広さは三坪ほどか。比較的汚れの少ない場所で休むだけなら十分すぎる場所だった。
隼人は背中をべったりと壁にもたせかけた楽な格好で腰を下ろし、少し水気の抜けかかった大根を齧る。
民家の納屋の軒下に吊るされていたもので、恐らく漬物にでもする用途なのだろう。それを、人の起き出さないうちに、一本盗んだ。
恐らく下肥を使っている、いわば「完全有機栽培」であろう畑の農作物を、洗いもせずに直接口にするのは、衛生的に気が引ける。これならば多少しなびてはいるものの、一度は洗ってあるようで表面も綺麗だったので、食料と体力を確保するために抜け目なく拝借したものだった。
そもそもがテロリストの隼人である。
大根一本寸借したところで、こちらも非常事態、良心が咎めるということも特にない。
手元に金があれば、小銭の一つも引き換えに落としてくればスマートなのだろうが、何しろ今の隼人は無一文。それ以前に、「この世界の通貨」が何なのか、あるいは貨幣経済が存在しているのか、それさえもまだ把握できていないのだから仕方がない。
物々交換に使うアイテムすらないのだから、物資の調達方法は窃盗一択しか残されていなかった。
太陽が頭上に昇り、傾き出す時分には、おおよその状況を掴み始めていた。
ここはやはり、現代ではない。
そして道を行き交う男女の髪の結い方や着ているものの形。
隼人はさして日本史に詳しい方ではないが、江戸期のものでは明らかにない。
農民より、商人や下級武士のような人間のいでたちの方が、時代を読み取りやすかった。
裾を短く、動きやすくたぐりあげた水干姿や、折烏帽子を被った男達の姿は、中世の絵巻物などに登場するものにより近い。
(ということは……本当に平安時代……なのか……?)
厳密な時代は推測できないが、中世日本と考えて良さそうだった。
「タイムスリップ」。
陳腐なSF用語ではあるが、どうしてもその単語が頭をよぎる。
仮にそうだとして、しかしそれは、単純な時間移動と考えてよいものだろうか。
確かに目の前の風景は、歴史資料で知る限りの中世のものによく似ているが、単に1000年ほど遡った日本……つまり同じ空間の、単純過去と呼べるものなのか。
何しろここには、現実に、自分が21世紀で見知ったものと酷似した鬼が跳梁跋扈する世界なのだ。
再び日暮れを待ち、人の姿が戸外から消えたのを見計らって、また西へと移動する。
昼間観察を続けたおかげで、おおよその方角は見当が付いた。
昨晩とは打って変わって雲も少なく、月の映える夜である。とはいえやはり、人工燈火のほとんどない状況では、目が慣れても圧倒的に暗い。
できるだけ湖に近づく方針で歩く。
かつて氾濫した折にそのまま取り残されたような小さな池や湿地が所々にあり、護岸処理のようなものはほとんど行われていない。闇の中でしばしば、隼人の足は泥濘に取られた。
考えてみれば、湖沼や川、そして海岸のラインが綺麗に整っているのは、近代的手法で埋め立てや護岸工事を行った結果であって、このように大将の池沼を周囲に従えているのが本来の姿なのだろう。
置かれた状況に比して、酷く呑気な事を考えながら道を進んで行く。
すると、次第に湖面の中空に浮かび上がる、赤い光の姿が目に入って来た。
水面からの靄で霞んではいるが、よく目を凝らすと、ただ光があるだけではなく、何か大きな柱のようなものがあり、その中から光が漏れていることが分かってくる。
柱、いや塔なのか。ひどくねじくれた形の大樹のようで、ひどく有機的なものにも見えた。
翌日は、さすがに街道を堂々とという訳には行かぬまでも、裏道を選びながら日中に移動を続けてみた。
というのは昨日の夜、またも民家の軒先から、マントとして羽織れそうな大きな布を一つ失敬したからである。
一見麻かと思ったが、身にまとってよく見てみれば、何かの植物の皮を柔らかく加工して織った布だった。そんな素材のことは隼人にはどうでも良く、パッと見にはゴワゴワしていそうな繊維は、身に着けてみると意外に柔らかくしなやかな質感があって、悪くなかった。夜は毛布代わりにも出来そうな上、何よりサイズが大きいので、ほぼ足先まで覆えるのは、パイロットスーツを隠すためにも都合が良かった。
また、往来の男を見ると、身分に応じて誰もが髪を結い上げたりまとめたりしていて、短髪というのはほとんど見当たらない。
隼人は普段、特に理由もなく髪を無造作に伸ばしており、いくらなんでも鬱陶しいので適当に切ろうかと思いつつも、そんな暇がなく伸び放題の有様だったのだが、この状況では都合が良かった。
マントの端を少しだけ裂き、縒って紐を作り、後ろで髪を縛りまとめる。
本来ならばもっときちんと結い上げれば少しは上手く化けられるのだろうが、中世風の髪の結い方など知る筈も無し。やらないよりはいいだろう、という程度ではある。
人々の言葉は、良く聞き取れない単語も目立つが、話している事の大意は意外によく把握できた。
できるだけ人の良さそうな年配の女、あるいは警戒心の薄い10歳前後くらいの子供を狙って、土地慣れない旅人(実際何一つ嘘はついていない)を装い、道を尋ねる風の短い質問をしながら、周囲の情報を少しずつ仕入れて行く。
「どこから来たのか」と訊かれたので、試しに「蝦夷」と、ざっくりとした文言で答えてみる。
この時代の近畿地方(と仮定して、だが)の人間には、外国同様に遠い存在、「未開の地」「蛮族の国」という認識しかない筈だ。言葉や服装が奇妙でも、状況に不案内でも、「蝦夷の者なら仕方ない」と考えてくれるだろう。
そう判断したのは当たっていたようで、意外に親身に教えてくれる者が多かったのは望外の収穫だった。
何よりも、その答えで納得してくれたのだから、ここにも「蝦夷」はある、という事実も確認出来た。
隼人が知りたかった事の一つに、「ここは琵琶湖の沿岸なのか」という事実確認があったのだが、これを知るのは予想外に難渋した。
誰一人として、「ビワコ」という固有名詞を知らず、聞いて不思議な顔を見せるばかりなのである。
この湖について、彼らは単に「ウミ」とだけ呼んでいるようだった。
ただ、その中で数人「オウミノミ」「アワウミ(淡海)」と言った者がいた。これは和歌などにも登場する琵琶湖の呼称なので、間違いなくこの大きな湖が琵琶湖だという事が判明した。
中世にまだ「琵琶湖」という名前は存在していなかったのかもしれない、と隼人は思った。
琵琶湖はその名の通り、「形が琵琶に似ているから名付けられた」と聞いたことがある。
しかし、これほど大きな湖の形を把握するには、相応の測量技術が必要となる。
まだこの時代には、そこまで技術が発達していなかったのだろう。考えてみればそう理解する方が自然でもある。
実際、「帰還」して後に調べてみたところ、「琵琶湖」の名が定着したのは、測量技術が進んだ江戸時代からの話だという事が分かった。
「……では、あの『淡海』の中に建っている……いや、在るのは一体?」
隼人は、陽光の下でいよいよはっきりと見える「湖上都市」と、そこに聳えるグロテスクな塔について尋ねた。
赤子を背負った初老の女は、それを聞くと露骨に眉を顰め、声を聞きとれるギリギリまで低めて、何かに怯えるような仕草で言う。
「……お前さまのぅ、ここまで来る途中……
飛んでおるのでも、化け物馬に乗って走っておるのでも構わんが、鬼の姿を見はしなかったかい?」
「鬼?……
ああ、昨晩見た。俺が見たのは、羽が生えていて空を飛ぶ鬼だったが。」
「淡海の上に浮かんでおるのは、あれは鬼の都じゃ。鬼はあそこで生まれて、都やこの国の人里に仇なす者よ。
いくら退治しても追い付かぬ。空の上の地獄から、いくらでも現れよるでなぁ。」
と、女は溜息をついた。
「都……都とは、桓武の帝がお作りになった平安京のことか。」
出来るだけ怪しまれないように、柄でもなくわざと時代がかった言い回しを絡めてみる。
真顔でそんな会話を重ねる自分がいかにも滑稽でこそばゆいが、こうすることで、平安京や桓武天皇が存在していたのかという歴史事項も確認出来るというものだ。
「つまり、まことの都と、鬼の都が二つながらにあるということなのだな。」
「そうじゃ。なんとのぅ、あずまの人はさようなことも知らずに、一人徒歩(かち)で、よくぞ鬼に首もかかれもせずに、ここまでたどり着きなさったものよ。」
今更何をそんな当たり前のことを、と呆れながら女が呟いた。
「安ら都と呼ばれたのは昔のこと、今は鬼と戦うための砦のようじゃ。
鬼もそこを狙って攻め込むものだから、住んでいるのは侍ばかり。名のある家の公達や女子供のほとんどは西へと逃げだしてしまって、前のような華やぎはまるでなくなってしまった。
今や、頼光さまだけが都の……いや、ヒトの頼みの綱じゃて。」
「……ライコウ?」
「これ、恐れ多い。間違っても呼び捨てになどするでない!先の鎮守府将軍、源満仲様のご嫡子・源頼光様のことじゃ。」
女はいよいよ隼人の物知らずに呆れる……というより、立腹さえこめて答えた。
「源……ああ、ヨリミツ、か……そう言ってもらえれば分かるものを。」
おぼろげに記憶がある。確か大江山の酒呑童子退治の話の主人公だったか。
「何と失礼な東戎かのう。お名をそのままお呼びするなど、おこがましくも不敬なことよ。」
と、情けなさげに溜息をついた女は、ふと西の空を見やり、指差して言った。
「ほれ、あれが頼光さま方のいくさ船じゃ。あれを作るために、村の男の半分は労役に出ておる。晴れがましいお役目よ。」
「何……だと……???」
隼人は我が目を疑った。
西方の空に、木造の船が「飛んでいる」。
遠くて細部まではよく分からないが、幾つかの砲装のあるのが分かる。そして小さな編隊を成して飛ぶ艦首部分には大きく「光」の文字がペイントされていた。
今いる空間のテクノロジーが、隼人の知っている日本中世のそれとは微妙に段階が異なる気がする。
そんな違和感は薄々感じていた。
現にこの辺も、ただ長閑な農村のように見えて、鍬や犂に用いられている金属は固く鍛えられた見事な鋼の刃である。
平安時代、既に刀や鎧を作る鍛造技術は存在していたのだが、ここまで高度なものだろうか、そして農民にまで降りて来ていたものだろうか、と不思議に思っていた。
しかしもはや、疑いはない。
この世界----そう、もはや単純に同一空間で時間だけがずれた訳ではない。「時代」ではなく、別の「世界」と認識して呼ばねばならないだろう----の科学技術は、所々が明らかに過剰に前倒しされて進歩している。
明らかに、元居た世界とは違う、何かしら大きく捻れた位置にある「異世界」なのだ。
いよいよそれを認めなければならない、と、隼人は秘かに戦慄した。
そんな行動をもう一日繰り返した夜のことである。
降る雨はさほどではないが、何しろ雷が酷かった。
まるで空と地面を杭で打ち抜くような、激しい稲光がいくつも垂直に注がれ、轟く雷鳴は、蛙や虫の声も打ち消してゴロゴロとやかましく、空気も地面もビリビリと震えている。
こんな夜に無理をして先を急ぐこともない。
どちらが顔か背中か判然としないほどに古びた地蔵のある祠を見つけ、今夜の宿をそこに決めた隼人は、昨晩盗んだ黒い馬の手綱を傍の木に結び付け、中に入ると、雨漏りを避けながら躊躇せずに寝転がった。
三日目ともなると、こういう場所で夜をやり過ごすのも段々と慣れて来た。
今が過ごしやすい季節なのも幸いしているとは言え、我ながら、都会育ちの割にはなかなかの順応性だと思う。
恐らく弁慶であればもっと、ここの人間とのコミュニケーションを上手にやってのけて、食べ物や着る物に始まって、物々交換でもやりながら、この世界の金さえも首尾よく手に入れてしまっていることだろう(そう言えば隼人はまだ、ここで流通している貨幣を一度も目にしていない)。あれはそういう如才の無い、そして人当たりが取り柄の男だ。
竜馬ならば……新宿育ちの彼は、社会的環境としては自分の育ちに近いかもしれないが、そのアクティブさはまた方向性が違う。恐らくはもっと派手に盗みまくるに違いない。
我ながらくだらない想像だ、と隼人は自嘲する。
しかしそれはそれとして、合体した状態のゲッターで共に突入した筈の二人が今どこでどうしているか、ということはそれなりに気にかかった。
今この同一の時空間に居るのか。
時間は同じで、隔たった場所に居るのか、それとも別の時間に「着地」したのか。
どういう訳か、「生きているのか」という、もっともプリミティブな疑問は浮かばない。
ゲットマシンから引き離されていても、自分がこうして生きていたのだから、あいつらも簡単にくたばったりはしていない筈だ。
なぜか、そういう奇妙な確信がある。
ただし、もしも何十年、あるいは何百年と離れた時代に辿り着いたとしたなら、またはさらに違う時空の平行世界的な所に行ったとしたならば、もはや邂逅しえないかもしれない、という不安は確かにあった。
それでも今は、取り合えず「鬼の都」を、あるいはそれと戦うために要塞化しているという「オリジナル(と呼んでいいものかどうか疑問はあるが)な平安京」を目指すしかない。
湖底で確かに、三人揃って同じ遺構を見た。
この異世界と元の世界を、リンクさせる手がかりがあるとすれば、恐らくはあの「鬼の都」にしか存在しないだろう。そう思えた。
それにしても何故、あの時、俺達は研究所の近くから琵琶湖にまで、瞬間的に移動した……いや、「させられた」のだろうか?
ここまでの流れを振り返ってみると、まるで琵琶湖に、そしてこの異世界に俺達を呼ぶための一連の動きのように思える。いや、そうとしか考えられない。
だとすれば、「敵」が呼びこもうとしたのは一体何なのだろうか。
ゲッターロボか、俺達三人なのか、あるいはその両方なのか……?
固い板の上でゴロリと寝返りを打ちながら深まりつつあった思案は、不意に開いた扉の音で打ち消された。
「おや、先達が居やったか。
わしも一晩雨除けをお願いしたいんだが、そちらの隅を貸してもらっても構わんかねえ?」
ビカリ、と際立って光った電光に照らされながら木戸を引き開いたのは、器用に折った頭巾を帽子にした、軽装の男だった。居ずまいからして商人だろうか。
「ああ勿論、俺もご同様に、道中降り込められての雨宿りだ。
そっちの端は雨漏りがある。真ん中を使うといい。」
と、隼人は答えて、起き上がった。
愛想を良くしないまでも、他人との世間話を基本的に忌み嫌う隼人である。
しかし今は状況が状況だ。
現状把握のための情報は、少しでも多く仕入れたい。
今こうして偶然に出会ったこの男、いでたちから見ても相当旅慣れているし、人の良さそうな口調でもある。
このまま物知らずな田舎者を装って色々話をすれば、警戒心の強い農村の人間よりは様々な事を教えてくれそうに思えた。ならばここは、慣れない軽口でも叩いて、相手の口の滑りを良くして見るのが得策かもしれない、と隼人は腹を括る。
「すまんねえ、ならばお言葉に甘えて真ん中を拝借するとしよう。
……ところで、表に繋いであるのはあんたの馬かね?」
男は荷物と共にどっかりと腰を下ろしながら、隼人に尋ねた。
「ああ、一応な。」
「暗くてはっきりとは見えなかったが、丈夫そうでよい馬だな。
こんな雷の日にちっとも怖がらないとは、随分よく仕込まれたのか、肝が据わっていて大したものだ。あれなら、いくさ馬に召されても、立派に働けるに違いない。」
「褒めてもらうのは面映ゆいが、明日夜が明けたら、あんたが馬を盗んで居なくなっちまったというのは勘弁して欲しいものだな。何しろ俺にとっては唯一の足なんでね。」
「へへ、そのつもりならわざわざこんなボロ祠に入って顔を見せるまでもなく、そのまま乗って逃げて行ったさ。」
「違いない。」
と言って、隼人は少し笑ってみた。
恐らく相手には、歪な苦笑いにしか見えていないだろうとは思うのだが、これでも自分としては相当努力している方なのだ。そう考えると、引き攣った顔が見られずにすむだけ、この暗がりは有り難い。
「ところでお前さんは、いくら一人だからって灯りも点けずに、気味悪くはないのかね?」
男が言った。
「さっさと寝てしまうつもりだったからな。それに生憎、火種になるようなものも持っていない。」
「そうかい。わしは暗いところが苦手なんだが……祠だったら蝋燭ぐらいあるだろう。すまんが、点けても構わないかね?」
「ああ。そりゃ灯りはあるに越したことはない。」
「なら、お言葉に甘えるとして……んー……お、あったあった。多少湿気ているが、どうかな……うん、大丈夫。点いた点いた。」
二人の間が、微かな熱と共に明るくなる。
男は小さな燭台を床に置き、手元の火種を吹き消した。
その薄く小さな木片を見て、隼人は思わず驚き凝視する。
「……その……いや、その、あんたが持ってる火種は……?」
何しろ、木造戦艦が空を飛ぶ世界である。こんな科学技術のズレは「誤差」でしかないと知りつつ、つい反応せずにはいられなかった。
「ん?蛍木が珍しいのかい?」
男は吹き消した後にまだ少し煙の燻っている木片を少し差し出して見せる。
よくは知らないがこの時代、火種と言えば火打石と火口ぐらいしかなかった筈だが、先ほど男が使い、一瞬で点火していたのは、多少原始的ではあるが、紛れもなくマッチ。
この世界ではどうやら「蛍木」という名前で呼ばれているようだ。
「なんだか変わった着物だが、お前さんどこから来なさったんだい?」
男は珍しげに、マントから出た隼人の足元を見つめつつ、少し訝しげに言った。
「ああ……蝦夷から旅をして来たのだが、俺は特に海沿いの田舎から来たもので、何もかも珍しいことばかりだ。」
「へえ。そんな長旅にしちゃ随分荷物が少ないように見えるが……追いはぎにでもやられたかね。最近は鬼も怖いが、盗人山賊も増えたからねえ。」
「あ、ああ、そうなんだ。酷い目に遭ったよ。」
隼人は何度も冷や汗を掻きつつ、怪しまれぬように話を上手く合わせて行く。
「あんたは都から?」
と尋ねると、男は少しキョトンとして訊き返してきた。
「へ?なぜそう思うね?」
「いや、何だか垢抜けた風に見えたもので。」
「ははは、お前さん、見た目は愛想無さげだと思ったが、なかなか嬉しがらせが上手いじゃないか。」
男はカラカラと笑った。
我ながら見え透いた世辞かと思ったが、単純に喜んでいる風にも見える。
「わしもお前さんと似たような東人よ。常陸から都までもの売りに来て、今はまた帰る所だ。
だからまあ……『都から来た』には違いないと言えば違いはない、か。」
「もの売り……とは、何の商いを?」
「石墨(いしずみ)だよ。」
「いしずみ?」
「値が高いのと、火が強くてあまり家の中では使わぬが……鋼を鍛えたり、船を動かすには、近頃では無くてはならんものだ。
ほら、これじゃ。見たことぐらいはないか。」
男は枕代わりにしていた頭陀袋から、黒い塊を取り出した。
(これは……石炭……?
なるほど、イシズミ、とは、「石炭」に通じる、か……)
石炭の採掘、そして利用。
明らかにこれも、元の世界を基準にして考えればオーパーツの類。
石炭の高火力が既に活用されているならば、良質の鋼が農民レベルにまで行き渡るのも不思議ではない。
そして今、この男の言った「船」とは。
「船というのは……もしかしてあの、空飛ぶせんか……いくさ船も、これを燃して飛んでいるのか?」
「おお、お前さんもあの、頼光様のいくさ船を見たのかね?」
「ああ。」
「そう、まさにあの船、そして『いくさ車』は、わしらが掘り出した石墨をくべて、それで動いているんだよ。
何しろ今は鬼との戦で大変な世の中だ。石墨はいくらあっても十分ということはない。
だからわしらも、もっと沢山掘って、沢山お売りしたいんだが……石墨を掘る時にはひどい毒の……瘴気が吹き出すから危ないし、長い時間穴に入ってはいられないからねえ。切ないものだ。」
と、男は残念そうに語った。
彼の言う「瘴気」とは恐らく、炭坑から噴出するメタンガス、そしてそれよりも恐ろしい一酸化炭素のことを指しているのだろう。
(常陸……は茨城、常磐炭鉱のことだろうな……)
隼人が生まれる以前に閉山してしまった炭田だが、名前は辛うじて知っている。
テクノロジーレベルが大きく異なるとはいえ、こうした地理的な状況は元の世界とかなり合致しているのが、今となっては不思議にさえ思えた。
「しかしまあ、あのような素晴らしいいくさ船を作り、それを率いて黒平安京を攻め、鬼相手に一歩も退かぬのだから、頼光様こそまさに生きてこの世に遣わされた戦神。
ご自身も武勇に優れ、女性(にょしょう)ながら勇ましく、まことに得難いお方だよ。」
「お……女?源頼光が???」
これもまた、隼人の知る日本史とは大きく違っている。
「おや何ぞ、それもご存知ないのかね。
やれやれ、どれほど浮世離れした所で育ったのやら。こちらが驚かされることばかりよ。」
男はいよいよ肩をすくめて呆れながら、それでもどこか楽しそうに説明を始める。
頼光は源満仲の最初の子供で、女児であったので嫡子にはなれぬ、と父親は落胆したのだが、その時光と共に大日如来が現れ、この娘を後継ぎとすれば源氏の一族は栄え、武勇の功はさらに後世に引き継がれるであろう、と予言を残して去った。
信仰心の篤い満仲はそれを信じ、大日如来の後光に因んで「頼光」と男の名前を付け、幼い頃から男性として帝に仕えるための文武両面の教養を容赦なく叩き込んだ。
女が武士として出仕することには当然反対の声も多かったが、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった満仲の武勲の実績と、並居る武将の中でも明らかに抜きん出た頼光の能力が、慣習を覆した。
そして何より、頼光の生まれた頃に突如として淡海水上に出現した「黒平安京」の鬼と、それを率いる安倍晴明の妖力という未曽有の敵に直面していた朝廷にとって、優れた武将は何よりも希求する存在だった、という事実の反映でもあった。
「鬼の都」の別称であろう「黒平安京」、そしてその首魁としての「安倍晴明」という名。
男の話の中には、隼人にとっては初出の固有名詞が二つも登場したのだが、「物知らずの田舎者」を装っても、怪しまれないためには限界がある。
そう思い、驚きの表情を見せたり、言葉を反復したりせぬように務めていたのだが、やはり少なからず驚愕はあった。
安倍晴明。
その名がフィクション作品やゲーム等にやたら登場するようになったのは、隼人が中学生ぐらいの頃だっただろうか。
日本一著名な陰陽師であり、多くの作品の中では、その膨大な知識と理論、そして霊力により、平安京の陰陽五行的な守りを固めたプロデューサー。悪鬼妖怪の類と戦うその姿は、どのような扱いであれ大抵は体制側に属する人間として理解されている。
それがこの世界では、鬼を操り、帝や民草にけしかける悪の親玉として君臨しているらしい。
もっとも、自由自在に式神や異怪を使役する、という彼の異能に目を向ければ、多少の捻じれはあっても、為している行為としては通底していると言えるのかもしれない。
彼こそがあの鬼の都の、奇怪な塔の主。
ゲッターロボや自分たちが引き込まれたこの現象に、果たしてこの世界の安倍晴明は関与しているのだろうか?
どちらにしても琵琶湖を目指さなければならない、という隼人の決意はより深まった。
「……ところで、あんたの見聞の広さに期待して尋ねたいんだが……」
より男の気安さを引き出そうと、隼人は一度話題を変えてみる。
「ん?何だね?」
「今日の昼に通った峠で、こんな実を見つけたんだが……
これは食っても差し支えないものだろうか?」
と、蔓と葉が付いたままの、「何かの果実」を差し出す隼人。
一見するとただ蔓だけに見えるほどに小さいが、よく見れば親指の関節一つ分ほどの、楕円形で緑色の実が付いているのが分かる。
その色から最初は未熟な果実かと思ったのだが、やたらと香りが良いので、腹の足しになるかと摘み取って来た物だった。
とは言え、山に自生していた見知らぬ実を口にするのはどうしても危険を感じて憚られる。この辺りが自分の、いかにも都会育ちの現代人的なひ弱さに違いない。と隼人は軽く自嘲する。
男は実の形を視認するまでもなく、その爽やかな芳香ですぐに察しが付いたようだった。
「こりゃあサルナシじゃあないかな……ああ、やっぱりそうだ。」
と言って、実を摘んで表情を綻ばせる。
その反応を見る限り、毒を持つようなものではないようだ。
「食えるも食えないも、こいつは最高の果物さ。旅の疲れにはこれ以上ない薬になるよ。」
「サルナシ?」
「ああ。わしの国の方じゃそう呼んでる。この辺じゃあ『コクワ』のほうが通りがいいかね。
その名前の通り、猿とか熊とか、山の獣が我を忘れて奪い合って食べるから付いたんだ。 つまりその位美味くて、滋養がある。
獣に先を越されたり、蔓だから高い所に生っていて、そうそう見つけられるもんじゃないから珍重されてる。あんたんところの山じゃ生ってないのかい?」
「あ、ああ……周りは海ばかりだったものでな……」
「へえそうかい。ま、そういうこった。安心して食えばいい。
どこで見つけたんだい?」
「ここから東に2じか……一刻ほど行った峠道だ。
馬が立ち止まるから何かと思ったら、木の上にこれが絡まっていた。」
「ほほう、そりゃいよいよ気の利いたいい馬だ。
ところで一つご相伴してもいいかね?その匂いを嗅いだらどうも溜まらなくなって来た。」
「勿論だ。一つと言わず食べてくれ。」
と、隼人は気前よく、1mくらいの長さの蔓ごと男に手渡す。
男は礼を言って、実を一つちぎり取ると、皮をむかずに直接かぶりつき、いかにも美味そうに食べ始めた。
先に食べさせて、毒見と食べ方のリサーチを済ませる辺りが隼人の周到な所である。
そうは思わせずに観察を終えると、自分も慎重な手付きで緑の実を齧った。
皮は思ったより固いが、中から甘酸っぱい果汁が迸ってくる。
(ん……キウイフルーツ?)
どこか覚えのある香りだとは思ったが、この味と酸味はまさしく、キウイフルーツのそれを凝縮したような、鮮烈なものだった。これは確かにビタミンが濃そうな、男の言う通り、疲労には効果のありそうな拾い物だと思った。
少なくとも盗んだ大根やら瓜やらを生で食うよりは、精神的にはよほど満たされるものを感じていた。
サルナシの実を2,3個食べ終えると、男は
「あとは道中のお楽しみ、というか俺も、その峠に行ったら探してみるかなぁ。」
と、指に残った果汁を舐め、残り香を嗅ぎながらいたくご満悦の様子だった。
先程より雷鳴の数は少し減ったようだが、その代わり、電光と雷鳴の間隔は明らかに狭まっている。
つまり、雷は明らかにこちらに近づいてきている、という証。
「それにしても、本当にひどい雷だな。」
と呟く隼人に、男は
「雷なんぞ、そう怖いものでもないさ。
どっちかと言えば、こんな空雷が鳴る日は、徒波が出て来やすいからな。そっちの方がよっぽど恐ろしい。」
「……アダナミ……というのは??」
「ありゃまあお前さん、徒波も知らんのかい?
参ったなあ、よくそれでほんとに此処まで、鬼にも食われず来れたもんだよ。
この位の呑気者の方が、恙無く生きられるもんなのかもしれんなあ……」
男は今度こそ、心の底から呆然としたようだった。
そのいささかオーバーなリアクションに、隼人は今度こそ
(流石にまずったか……?)
と、心中で舌打ちをする。
「まぁいいや、単に言葉をご存知ないってだけかもしれんからな。
あのなあお前さん、鬼の姿は何度か見たと言ってたよな?」
「ああ。」
「鬼が現れるすぐ前に、空がこう……上に吸われるみたいに穴がポカンと開いてさ。五色に光りながら、渦みたいにザワザワーっと波立つ感じになるの、見たことないか?」
「渦……つまり穴の周りがこう、グルグルと……?」
「そうそう、それだよ。
それがさ、派手な水輪みたいだから、『徒波』って呼ばれてるんだ。
ホントは、『風も何もないのにできる波』って意味らしいんだが……
つまり、空なのに、海みたいに波が立つからってことで、誰かが言い出したんだなあ。」
「ほう……?」
「この徒波が起こるようになったのは、あの黒平安京ができてからなんだと。
徒波が起こると、そこから晴明に呼ばれた鬼が降ってくる。その印だよ。このわしも、何度か徒波の中から鬼が出て来るのを見たことがある。
あれは本当に、生きた心地がしないなんてものじゃない……」
その事を話すだけで、男は本当に恐怖に軽く震えだしていた。
「なるほどそうか、あの渦を、徒波と言うのだな。
確かに見たことはあるが、その名前は知らなかった。」
隼人の言葉は嘘ではない。
実際、隼人達はそれを見た。それどころか自ら、その中に飛び込んだのだ。
そして男の語る「徒波」の様子は、あの時見た「光の渦」のそれにほぼ合致していた。
正確に言えば、あの時突入した渦を、「出口」側から見ればまさしくそうした状況として映る筈である。
「ここのところ、徒波の出ることが多くなって、その間が短く、早くなってる。そう皆噂してるんだよ。
しかもこの頃じゃ、空だけでなく、淡海の水面にも時々徒波の立つことがあるんだと。
まあ……海に波が立つのは、空よりは当たり前のことなのかもしれないけどもなあ。
この前……そうだな、ほんの三日前も、少し東の方で、派手な徒波が立ったらしいぞ。
三日前に、ここから東?
それはもしかして、俺がこの世界に来た日のことではないのだろうか。
もしそれが、俺の「召喚」に伴う現象だと仮定すれば……
俺は「鬼」と同じということになるのだろうか?
流石に鬼呼ばわりは真っ平御免、という個人的感情と希望的観測に基づいて考えるなら、その「徒波」なる怪現象は、「別次元から異分子がこの世界に(何らかの形で呼び込まれて?)来る」時に随伴して起こる。そういうものなのかもしれない。
もしそうだとするならば……
隼人は続けて、「同様の大きな徒波が起こったことはあるか」と尋ねてみた。
もしも自分の立てた「仮説」が正しいなら、その時期や方向が、竜馬や弁慶、あるいは ゲッターロボがこの世界に来ている可能性、そして具体的な情報を示すことになるかもしれない。
男は、自分もよくは知らない、と前置きしたうえで、
「二年ほど前に、都の南側でかなり大きな徒波があったと言われている」
ということを教えてくれた。
それまで雷鳴の中でおとなしくしていた戸外の馬が、急に大きく嘶いた。
その声はなんとも苦しげで、様子がおかしく思われた。
「ん……こりゃちょっと、尋常じゃないようだな。」
そう呟くと、男は隼人を促して一度扉を開いて外に出て、馬を何度か撫でながらぐるりと一周し、あちこちを視認すると、苦い顔で言った。
「どうもいかんなあ。この息の仕方は多分、水がかなり足りてないようだ。
あんた、ちゃんと道中、この子に水を飲ませてやったかね?」
「今朝一度、湖脇の池で呑んでいた筈なんだが。」
「おいおい、そりゃあ拙いよ。
淡海は、昔は魚も鳥も貝も沢山棲んでたけど、黒平安京が出来て以来、瘴気の沁みた毒水が出るようになってしまってなあ。勿論周りにある池やら沼やらも同じことよ。
そんな水を飲んだらあんた、元気な牛馬だってたちまち弱ってしまうに決まってる。」
「……」
男の口調は明らかに隼人を責める風で、どう返したものか、つい戸惑ってしまう。
隼人にしても、ここで貴重な足を失いたくはない。
「どうすれば治せるものだろうか?」
「毒水をそんなに沢山飲んでないんなら、綺麗な……そうだな、この辺なら井戸は大抵大丈夫だから、どこかで井戸を借りて、綺麗な水をたっぷり、ゆっくり飲ませてやれば良くなる望みはあるぞ。
その時には、できれば、少しずつ塩も食べさせてやるといい。」
「なるほど……
あんたは西の方から来たと言っていたが、途中に村の井戸や、人家を見たか?」
「ここから先、すぐには村も町もない。
……いやちょっと待ってくれ。
一里ほど道沿いに行けば、一つだけ家があったな。見た感じ大きかったし、井戸が無ければやっていけない場所だから、きっとあると思う。
小屋もあったから、運が良ければ屋根のある場所で休ませてもらえるかもしれんぞ。
少なくとも、ここで外に繋いでおくよりは何ぼもマシな筈だ。」
「そうか。頼れるとするならそこしかないだろうな。」
「ああ。水が脱けはじめると、馬はどんどん弱る一方だ。夜が明けるのを待っていたら手遅れになっちまうぞ?
今……多分まだ、戌(午後八時)を過ぎちゃいない。
その家に人が居なくても、井戸は借りられる。動けるうちにすぐ向かった方がいい。」
「そうだな。ありがとう。」
率直に礼を言うと、隼人は一度祠の中に戻り、少ない荷物を身に着け直して、手綱を執った。
「色々教えてもらって、世話になった。
礼にもならんが、残りのサルナシはどうか持って行ってくれ。」
「おう、悪いな。有り難く貰うよ。
あんたも道中気を付けな!」
気のいい男はそう答え、軽く手を振って見送る。
あまり急がせず、隼人は馬を走らせた。
正直、いつまでも見ていないで、さっさと祠の中に戻ってほしい、と思う。
乗馬の経験などない割には、落とされないだけでも上出来、ではあるのだが、それにしても相当情けないヘッピリ腰でしがみ付いているだけなのは、自分でも分かる。
単純にみっともないし、第一この馬が盗んだ代物であること、そしてとても馬で長旅をして来た人間ではないことが容易に看破されてしまいかねない。
こんなにも自分の不格好さが情けなく思えたのは……そう、初めてゲッターロボに乗せられた、あの時以来のことであった。
[続く]
*冒頭引用部分:意訳 本当に、わび住まいの身の日々の暮らしほど、悲しいものはまたとあるまい。 このような憂き世に飽いた上にも秋が来て、 夜明けの風が身にしみるけれど、それで心が休まるということもなく、 昨日も何という事もなく虚しく過ぎ、まどろんでいる夜中の時間だけが生きている証明。私の命などそのようなものなのだ。ああ、はかない生涯であることよ。(シテサシ=鬼女)(謡曲「安達が原」は、観世流以外では「黒塚」のタイトルで呼ばれます)
*徒波(あだなみ):風もないのに立つ波。
転じて、変わりやすい、移ろいやすい心。
*あだし(徒/化/空し):実意が伴わない、浮気な/はかない、かりそめの
*淡海(あわうみ):琵琶湖の古称。その他「淡海/近江の湖(おうみのみ)」「近淡海(ちかつあわうみ)」など。単に「うみ」とのみ呼ぶこともある。「琵琶湖」の名が定着するのは江戸時代中期以降。
*石墨:「天工開物」によれば、中国では古来石炭の事をこう呼んでいたとある。現在では、硬筆の原料として知られる鉱物・グラファイトの訳語として用いられるが、別の物質である。
導入部分の筈が無闇に長くなってしまいました。
隼人は博覧強記な上、順応力も高いと思うんですが、竜馬や弁慶のようにドバッと飛び込んで行くんじゃなく、周到に状況判断のための材料を集めて、慎重に動くんじゃないかと思っていたら随分と分量が増えてしまいました。
そして、サバイバビリティも度胸もあるけど、普段スマートなだけに、一応中世ベースの昔の世界においては、どこか都会人・現代人の線の細さみたいなもんが出ちゃうのかなあと。
夜の暗さや足元の悪さに驚いたり、人糞堆肥を撒いた畑から引っこ抜いた野菜とか、生水とか、山で採ったものを食べるのに抵抗があったりするところですね。
きっと竜馬だったらガブリと行く所を、隼人は行かない、行けないんじゃないかなーと。
そして私は琵琶湖を見たことがないので、描写は超適当でござる。
今まで見たので一番大きな湖は、多分猪苗代湖……だな……