安達が原[弐]:鳰(にお)の浮巣


  鳰の浮巣に灯がついた、
  灯がついた。
  あれは螢か星の尾か
  それとも蝮の目の光り。
 
  蛙もころころ啼いて居る。
  啼いて居る。
  ねんねんころころねんころよ
  梟もぽうぽう啼き出した。
(北原白秋「鳰の浮巣」)


 何度か耳をつんざいた雷鳴に肝を冷やしながらも、時折降りて轡を執りながら、隼人はだましだまし馬を西へと走らせた。
 やがて男の言う通り、小さな林を通り過ぎた辺りの所に、茅葺きの一つ家が見えて来た。
 さほど立派なしつらえでもない風ながら、一家族が住むには大きすぎるように見える。
 遠目からは平屋のようだったが、近寄って見ると低めの二階が上げられているのが分かった。
 傍らには牛馬用と思しき小屋があり、そして広い庭の隅には男の予想した通り井戸が一つ。
 鎧戸の隙間からは薄い光が漏れており、それに細い煙も上がっている。
 間違いなく人の暮らす気配があるようだ。
 この雷雨に紛れて水を盗むのは難しい事にも思えなかったが、ここは事情を話して穏便に井戸を借りる方が良いだろう。もしも馬小屋の屋根でも借りられたならば言うことはない。
 隼人は濡れた髪を、マントの内側でゴシゴシと擦り拭いた。
 とはいえ、身にまとった布も濡れており、さほどの役には立たないようでもあった。

 この時代、来訪の挨拶をするにはどう言えばいいのだろう。
 「頼もう」か「御免」か。「たれかある」では幾らなんでも尊大に過ぎる。
 時代劇や時代小説の類になどほとんど興味がないのだから、見当が付かなくても仕方がない。
 そう割り切って隼人は、よく通る声で
「ごめんください」
と、ごくごく無難に中の人に呼び掛けた。

「……はい……?どなた様でございましょう?」
 少し間があって、帰って来たのは女の声だった。この家の主婦なのだろう。
「夜分遅くに不調法とは存じますが、私の馬が具合を悪くしまして、難渋しております。
 申し訳ありませんが、こちらの井戸から綺麗な水を一桶、お分けいただけないでしょうか。」
 単語が通じるのかどうか、内心不安に感じつつも、ゆっくり、しかし淀みなく隼人は木戸越しに伝える。
「まあ、それは大変ですわ。お待ちくださいませ。」
 ガタゴトと、一度差した閂を解くと思しき音。
 それに遅れて、重そうな木戸がゆっくりと開いた。
「この辺りの池や沼の水は、一見には清水に見えて、鬼の都から出る毒水が混じっております。よく牛馬が誤って飲んで病気になったり、死んだりいたします。
 ささ、ここの井戸は深い古井戸、この水脈には毒水は入ってまいりません。いくらでもかまいませんから、早く飲ませてあげて下さいな。
 でも急かしてはいけません、ゆっくりと飲ませないとかえって吐き戻すことがありますから……」
と、女はことのほか協力的で、隼人と馬を井戸の場所へと連れて行った。
 水を汲み上げ、女が運んで来た空桶に移すと、馬は何も促さないうちから首を下げて、心地良さそうに飲み始めた。
 獣の本能で、無害なもの、自分の健康に有益なものが分かるのだろう、と隼人は思った。
 少しずつ清水を飲むうちに、呼吸が落ち着き、不自然な体の震えも見る間に収まってくる。
 確かにあの男の、そしてこの女の言う通りだった。
 この世界の、しかも琵琶湖の周りに住む人間ならば常識なのかもしれない。
「立ち入ったことをお尋ねしますが、旅の方ですの?」
 乾いた布で馬の体を拭き、撫でさすりながら女が尋ねた。
「ええ、そうです。都へ向かう途中で。」
 都は都でも「鬼の都」の方だとまでは、殊更に付け加える必要もないだろう。何一つ嘘を言ってはいない。
「こんな雷の夜ですもの、さぞお困りなのではありませんか?
 お馬もそうですが……あなた様も濡れて、冷えてらっしゃるようにお見受けします。
 もしお急ぎでないのでしたら、水を飲み終わったなら、あちらの厩に少し空きがあります。飼葉もありますから、そちらに繋いで朝まで休ませてはいかがかしら?」
「……こちらのご主人さまに、ご迷惑なのでは?」
「いいえ、今ここに住んで居るのはわたしだけ。年増女の侘び住まいですわ。」
と女は笑う。薄暗くてよく見えないが、女の年齢は恐らく三十前後で、顔付きは自分で言うほど老けこんでもいない。しかしこの時代の感覚では、女の三十歳は大年増扱いとなるのだろう。
「そうですか、申し訳ない。
 ではお言葉に甘えて、馬を一晩、屋根の下で休ませてください。ついでと言っては何ですが、私も馬の足元で屋根をお貸しいただければ有り難いのですが……」
 遠慮がちにそう言うと、女は少し顔色を変えて答えた。
「まあそんな!いけませんわ、牛馬と一緒に寝たりしたら、臭いが染み付いて、いくら何でも切なすぎます。
 旅のお方をそんな目に遭わせたと知れれば、私が村長さまから叱られてしまいます!
 ですからどうぞ、助けると思って……みっともないあばら家ですが、どうぞ朝までお休みになって下さいませ。」
「はぁ?」
 旅人をもてなさなければ叱られる、とはどういう意味なのか。
 隼人の疑問符をあえて無視するかのように、女は濡れたマント越しに隼人の背を押し、上り口へと押し込み、誘導した。

 中に入ると、かなり天井の高い家だった。
 そして一歩入るなり、かなり特有の匂いが鼻を突く。
 悪臭、とまでは言えない気がする。
 どこか爽やかな気もする香りがほのかに漂うが、圧倒的に青臭い。
 そしてそれに混じって、どこかしら乾いた匂い。
 不快ではないが、心地良いとも言えない。違和感が少しずつ胸の中に積って行くような、どこか不安をかき立てる臭いに思えた。
 入り口から台所まではぐるりと土間が続いており、そこから少し高い所に板張りの床がある。
 女は囲炉裏に炭を熾し、鉄窯で湯を沸かす準備を始めていた。
 遠慮しないで上がるように、と促されたものの、隼人はここで反応に窮してしまう。
 オールインワンのスマートなパイロットスーツは、竜馬のタイプとは違ってシューズも一体化しているため、どうしても土足でしか行動できない。靴を脱ごうとするなら、スーツを全て脱がなければならないのだ。
「いや、ここで構わない。」
と、土間に足を下ろしたまま縁に腰掛ける隼人の姿を見て察し、女は盥に水と麻布を持ち、
「これで足をお拭きになったら、そのまま上がっていただいて構いません。
 どうせご覧の通り、小汚いうちですから、遠慮はいりませんわ。」
と言って微笑した。
 隼人は言われるがままに靴の表裏を丹念に拭き取り、それでも膝でいざるようにして、囲炉裏の傍の、藁で編んだ円座の上に胡坐をかいた。
「……変わったお召し物ですのね。」
 こればかりは、会う人間会う人間誰もが必ず指摘してくる。無理もないことだ。
 だから隼人は、いつもの言葉で茶を濁そうとする。
「蝦夷から参りまして。」
 こう言えば大抵は、「蝦夷地ならば変わった物もあることだろう」と勝手に納得してくれる。
 だがこの女はあっさりと引いてはくれなかった。

「まあ……何を使って織っているのかしら?
 薄くて艶があるのによく伸びて……よほど丁寧に、細く紡いだ練り絹…?」
と、隼人のパイロットスーツに触れそうな勢いで手を伸ばす。
 どうやら、布や繊維に対して並々ならぬ興味のある様子だった。
「……織物をなさるんですか?」
 隼人はあまり露骨にならぬように微妙に身を交わしつつ、尋ねてみる。
「あら……まあ、ごめんなさい。
 見たこともない布だったものだから、ついゆかしくなってしまって……」
女は我に返って恥じ入る仕草を見せた。
「ここは、お蚕を育てて繭から糸を取るための家なのです。
 村の人はもっぱら、『繭屋』と呼んでいますわ。
 だから……入ってすぐお気づきになったでしょうけど、変わった匂いがするでしょう?
 これはお蚕の、というかお蚕の食べる、桑の葉の臭いなんです。
 臭くて気分が悪くなるかと思いましたけど、牛や馬の下肥よりはましかと思いまして……でも、あまり厩と変わらなかったかも。ごめんなさい。」
(養蚕のための家、か……なるほど、これは蚕の臭いか。道理で虫臭いと思った訳だ。)
 しかし、釣り餌に使うサナギ粉のような生臭くひねた臭いではなく、慣れてしまえばそう気にもならない程度、に、この時は思えた。
「いえ、とんでもないことです。
 そうか、ここは絹を作る家でしたか。ですから貴女は糸や布にご興味があるというわけですね。」
「蚕が良く育つのは夏です。その頃にはこの繭屋には、村の女の人たちが集まって繭を煮たり、糸を縒ったりして賑やかなのですが……
 夏繭を採って糸紡ぎも終わると、もう人手は要らなくなります。
 わたしはここで、また春が来てお蚕が卵から孵るまでの間、番をするのが仕事なのです。」
「……その間、ずっとお一人で。」
「はい。」
 そう答える女の顔は、特に寂しげでも無ければ作り笑いを浮かべるでもなく、ただそれが当然の仕事だからそうしている、という風で、何の感情も示していなかった。
 きっと何年もその生活を繰り返して来たのだろう。
「でも、まったく一人というわけでもないのですよ。
 ほら、今もこうして、糠雨のような音が聞こえているでしょう?でもこれは、晴れていようと雨が降ろうと、いつも鳴っている音なのです、ここでは。」
と、女は天井を指差す。
 言われて耳を傾けると、確かに、小雨が屋根を打っているかと思われた音は、よく聞けばポツポツではなく、カサコソという乾いた、もっと休みの無い細かいピッチのものだった。
「では、今もこの上で蚕を……?」
「ええ。家の隣は桑の木の林で、まだ少し葉が取れますから。
 春ほど沢山ではないんですが、餌のある間はお蚕を育てています。そのお世話も、わたしの仕事なのです。」
「ほう。」
「秋のお蚕の繭からは、夏ほど良い糸は取れません。
 でもこの時期のお蚕の……その『お下』や、繭や、そしてお蚕そのものは、とても良いお薬の材料になると言って、もう少しすると都から買い付けの方がいらっしゃるのです。
 ですからこうして、一人で手が回る範囲でお育てしております。」
そう言って座り直す女の腰の後ろには、木製の糸車が置いてあった。
 糸車には少し糸が張ってあり、一人で生糸を作っていた最中だったのだろう。




「先ほど何か……旅の者をもてなさないと怒られるとか仰っておられましたが……」
 隼人はごく平静な口調で、少し気になっていた言葉に探りを入れてみる。
「村……ええ、ここから西に一里ほど行った所にある、中納言さまの荘園なのですが……
 この繭屋もその荘園のものなのです。
 村にはずっと古くからの言い伝えがありまして……」
「言い伝え、ですか。」
 あまり珍しい話でもないかもしれませんけど、と前置きしてから、女は話し出した。

 昔々、都がまだ奈良におわした頃。
 遥か西から来た旅人が、村の近くで行き倒れかかっていたことがあった。
 身なりは乞食よりまだ汚く、その風体から誰もが触れようとしなかったが、心の優しい牛飼いの村人が、放っておけず世話をしてやった。
 旅人は介抱をしてくれた優しさに感謝し、「何もないけれど」と言いながら、小さな袋を牛飼いに礼として渡し、東へと去って行った。
 袋の中には種が入っており、空き地にその種を植えてみたところ、ひと月も経たぬうちにみるみる育ち、見事な桑の林ができた。
 村ではその桑を利用して養蚕を始めるようになり、糸を売ってたいそう栄えるようになったという。


「この辺りには、うちの周りのような桑畑が沢山あるのです。このお話はその謂われにまつわるものなのですが……
 そこからいつしか、よその土地からいらっしゃるお方……わたしたちは『まろんど』とお呼びしておりますが、そういう方にお会いしたらあだやおろそかにせ ず、もし軒をお貸しできるようなことがあれば、在り難きこととして、出来る限りおもてなしするように、と長年言い伝えられているのでございます。」
「まろんど、か。」
と、隼人は呟く。
 おそらくは民俗学で言う「マレビト・客人(まろうど)」の概念なのだろう。
 外部から訪れた異分子によって利益がもたらされる、あるいは逆に、邪険にする事によって災厄に見舞われるという、民話や昔話によく見られるフォーマット。
 それと同じタイプの説話が、この地域にも語り継がれているのだろう。
 その伝で行けば、隼人はまさに、異分子中の異分子。正真正銘の「客人」には違いない。
「わたし共の村では、昔は、徒波のことを『まろんど波』とお呼びして、福を齎す『まろんど様』がいらっしゃる兆しだと喜んでいたのだそうです。
 それが今では、鬼が来るとて、徒波などと禍々しき名前が付いてしまって……本当に情けなく、悲しい事ですわ。」
「客人波、か……興味深いな。」
 隼人の予想と、女の語る村の伝承は、大筋で合致している。
 真偽はどうあれ、面白いと思えた。

「申し訳ありません、わたし、まだ自分の名も申し上げておりませんでした。」
 女は急に、思い出したように居ずまいを正して向き直った。
「いやそんな、そこまでは。一夜の宿をお借りするのみで十分有り難く……」
 隼人の言葉に、彼女は耳を貸すつもりはない風だった。
「まろんど様」に遭遇したらきちんと名乗らなければいけない、というような作法でもあるのかもしれない、とぼんやり隼人は思った。
「わたしは、繭屋の守り女、鳰と申します。」
「澪……さん?」
「よく間違えられます。『みお』ではなく『にお』といいます。」
 呼び間違いには慣れているのだろう。女は軽く苦笑して続けた。
「鳰というのは、水鳥の『かいつぶり』をそう呼ぶのだそうです。
 この淡海も、昔はたくさん鳰が住んでいたので、『鳰の海』と呼ばれて、歌にも詠い込まれたと聞いておりますが……
 今では鬼の都と……いえ、それだけではなく、都の頼光さま方が、戦のためにあの飛ぶ船やいくさ車、それに火を吹く大筒をお作りになる時に出る毒水もあっ て、淡海には貝も魚も、鳥とて少なくなりましたから…『鳰の海』などと風雅な名で呼ぶ人も、めっきり少なくなりました。」
 テクノロジー、しかも「重工業」と呼ぶべきカテゴリの技術がこれだけ急速に、しかも突出して発展すれば、周囲の環境が汚染されるのは確かに不可避でもあろう。
 鳰の語る話は、淡々としていたがどれも興味深く、今自分が置かれた世界の様相を示してくれていた。
「それで……大変失礼ではございますが、まろんど様のお名前をお聞かせ願えませんでしょうか?」
 名乗る筋合もないのだが、ここまで名前の由来を語らせておいては、だんまりを決め込む訳にも行かないだろう。
 隼人は仕方なく、下の名前だけを名乗った。
 中世において、平民は名字を持たない筈だし、「隼人」という言葉自体は古代から存在する。さほど違和感を持たれないだろう。
「……ハヤト、だ。」
「隼人さま、でいらっしゃいますか……」
 鳰の背中に置いてあった糸車が、触れた訳でもないのに、カラリ、と一回回った。
「俺はただの小汚い旅の者で、あんた方が言うような『まろんど様』でもなんでもない。
 『様』などと付けて呼ぶのは勘弁してくれないか。」
 いつまでも丁寧な言葉遣いでは、神様扱いがいつまでも続いてしまいかねない雰囲気だった。
 それに第一、自分の性にも合わない。
 隼人は急にぞんざいな、というよりも平素に近い言葉遣いに戻して言った。
「そう申されましても、わたしは下賤の身ですから、どちらにしても殿方に様を付けぬ訳にはいかないのですわ。」
 と、鳰が微笑む。

 その表情、口元に軽く指を寄せる仕草に、隼人の目が一瞬止まる。
 何故だろうか。
 顔付きも肌の色も、何一つ似たところなどないのに、ほんの数秒、
「母親に似ている」
と思った。
 中学の時に死別した母親。
 その顔も最近ではそうそう思い出すことはない。
 いつしか、思い出さないようにと勤めるようになっていた。
 その由来不明な刹那の感情、いや、彼には似合わない筈の「感傷」に近い空気を、隼人は慌てて払拭する。
 確かに、化粧も何もしていない割には美しいと言える、細面だがどこか肉感的な女ではある。惹かれるとは感じないが、一般的な判断からすれば、魅力を発する女性と言っていいだろう。
 ----だが、母親にはどこも似ていない。

 何だろう、この錯覚は。
 俺らしくもない。まったく俺らしくない。

 この異常な状況下に置かれて、この女に情欲を煽られるというのならば、まだ自然だ。男には、極限状態で生殖方面の欲望が強まる本能がある。
 しかし、何故一瞬でも、母親の面影などを見いだしてしまったのだろうか。
 俺が母親に対して抱いていた感情があれば、それは恐らく、憐憫の一種でこそあれ。
 それでも、神隼人の内容物としては飛び抜けて甘っちょろい種類の感傷ではあるにせよ、要するに断じて、俺はマザーコンプレックスの類などではない。無い筈だ。
 多分に俺は、まだ全容の掴めないこの異世界、黒平安京の世界に放り出されて、彷徨って、褥のある所で眠ることもさえもない日が続き、疲れているのだ。だからそんな気の迷いのような情動が起こってしまったのかもしれない。
 大したことではない。
 俺の肉体も、精神も、少なからず疲弊している。
 それだけの筈だ。




 鳰は穀物の入った粥や温め直した汁、干し飯などを奥から持ち出して、しきりに隼人に勧めた。
 晩は先ほどの祠で、石炭商人の男と共に数個サルナシの実を齧ったのみ。
 質素ながら、数日ぶりの食事らしい食事に、鼻腔が喜び、口が本能的に唾液を分泌しない筈もなかったが、隼人は全てそれを固辞した。
 先ほど一度気を引き締めて、持ち前の冷静さが少し復活しつつあった。
 落ち着いて考えてみれば、この状況はあまりにも、話が美味過ぎる。
 確かに、鳰の語った、バックグラウンドとなる村の言い伝えは、民俗学的に見て特に破綻の無いストーリーではある。
 だが、ここは鬼の棲む……それも元の世界よりもずっと日常に食い込む形で鬼の棲息する世界。
 「徒波」を通じて自分がここに来させられた要因が「鬼との因縁」にあるのだとしたら。
 ゲッターロボの、自分たちの居る早乙女研究所を目がけて何度も鬼が襲撃を繰り返すのと同様に、この世界においても、鬼が自分に仇為そうと行動してくる可能性はある。
 無論、鬼達が自分を「神隼人」、いや「ゲッターロボに乗る者の一人」だと察知したならば、の話ではあるのだが。

 そもそもこの「話が美味過ぎる」状況を見てみればいい。
 旅に疲れ、馬も弱ったところで辿り着く一軒家。
 見すぼらしい旅姿だというのに、家に独居する美女は、それを快く迎えてくれる。
 こんな展開のストーリーフォーマットは、神仏現生譚か、鬼女伝説の二者択一。
 そして自分は、とても窮地のクライマックスに、神仏に助けの手を差し伸べてもらえるような人生を送ってはいない。そんな虚しい概念に依存する思考ルーティンもない。
 となれば、振舞われる食べ物や酒には、眠り薬や痺れ毒でも盛られているのが次のシーンの常道というものだ。
 警戒し過ぎか、とも思うのだが、まだまだ現状を把握できていない今は、素性の分からない食物を口にする気にはなれなかった。
「……毒など、盛ってはおりませぬよ?」
 隼人の心中を見透かしたように、鳰が残念そうに呟く。
「いや、そういうわけではない。
 ここ数日ろくに物を食べていなかったから……こういう時に急にがっつくとかえって臓腑がきつくて吐いてしまうんだ。どうか気にしないでくれ。」
「そうですか……もしよろしければ、白湯ならいかがでしょう?」
「ああ、申し訳ない。
 適当に汲んで、冷ましておいてくれないか。落ち着いてきたら有り難くいただく。」
「承知しました。」
と言って、鳰は囲炉裏の上の鉄窯から、自分と隼人の椀に湯を汲み、そのまま冷まし置いた。
 ややあって、鳰がその白湯を一口二口飲む。
 それを見届けてから、隼人はさりげない仕草でその湯ざましをようやく口にした。
----自分も同じ窯から取って飲むものには、毒の類は仕込むまい。
 そういう判断に基づいての行動だった。
 こうした抜け目無さを、敢えて隼人は忘れまいと己に課した。
 さもないとどうしても、数日ぶりの人家で過ごす夜の安堵感ゆえか、どうしても気が緩みがちになってしまう。そこに危機感を覚えていた。

「隼人さまは、旅のさ中によほど危ない目にお遭いになられたのですか?」
「……何故そんな事を?」
「気を張っていらっしゃるというか、お寛ぎになれないご様子ですから……
 わたしのすることや、お蚕の音や臭いがお気に触るのでしたら、申し訳ないと……」
 鳰の語調はまろやかだが、隼人の警戒心を見透かしているのは明らかだった。
「そうではない、こんなに良くしてもらって有り難いと思っている。
 だが……何というか、あんたがあまりに親切すぎるものだから……それにあんまり、よくある話をなぞったような成り行きなものでね。つい思い出してしまった。」
「よくある……お話、ですか?」
「この辺の方は聞いたことがあるかどうか。安達が原の鬼ば……いや、鬼女の……まあ、怖がらせの昔語りだ。」
「アダチガハラ、ですか……存じませんが、どのようなお話ですの?」
 鳰は思いの外、興味を示したようだった。
「いやしかし……考えてみればこれじゃまるで、助けの主のあんたを鬼呼ばわりするようで、あまりに失礼だな。
 すまん、忘れてくれ。」
「そんな、お話はお話。それ以上勘ぐったりはいたしませんわ。
 それに私、いつも一人でここに居て……いくら世話をしても馬もお蚕も、話相手にはなってくれませんから……ごめんなさい、何だか久し振りに人と話をして、楽しくて調子に乗ってしまったかも……」
と言って顔を伏せる鳰の声が、少し震えているように聞こえた。
「村の奥さんたちは皆、一人で、お姑さんで苦労することもなくて、薪も炭も食べ物も村から運んでもらえる私の暮らしが気楽で羨ましいと仰るけれど、特にこれから冬を越す季節は、寂しいものです。
 一人は……これからもずっと一人だと、大事な人にもう二度と会えないと分かっている一人のたつきは、まるで年々長くなるようで……ま、まあ、申し訳ありません。
 まろんど様にこのような愚痴をお聞かせして、お恥ずかしゅうございます。」

 「独り」とはそこまで耐えがたいものだろうか。
 孤独を何より愛する隼人には、鳰の言っている事が理解できないし、一生理解できそうにもない。
 しかし、「現代」の一人住まいとは、思えば随分事情が違う。
 金と時間さえあれば何処にでも行ける、好きな場所に住めるのと異なり、この女は一生、追い出されない限り、この一つ家で、蚕の世話をしながら、この臭いの中で過ごさなければならないのだ。死ぬまで。あるいは村を出るまで。
 「昨日と何も変わらないもの」しか行く手に見えない生活というのは、確かに、寂しい侘びしいは別としても、つまらぬものではあろう、と隼人は思う。

「もし隼人さまがまろんど様でない、とおっしゃるのでしたら、今宵の宿の値がわりに、その昔話をお聞かせ下されば、この婆は嬉しゅうございます。」
 先ほど言いかけて飲み込んだ「鬼婆」という言葉を、しっかり聞かれていたのだろう。
 隠さぬ寂しさを吐露してしまった気恥かしさを隠すように、言葉尻を拾って遊び、口元を半分袂で隠しながら、鳰は僅かに微笑んだ。ように見えた。
 それはあくまでさりげなく、しかしそれゆえに妙に妖艶な笑みだった。
「これは失敬。言い間違いをしっかり聞き咎められていたようだな。
 鬼婆などとはとんでもない。あんたはまだ若…く見える、少なくとも。
 まあ……そう勿体を付けるような話でもない。よくある、人食い鬼の、子供を怖がらせるような類のものだ。」
 隼人はつい、そんな風に答えて、記憶の底から安達が原の鬼、「黒塚」の物語を引っ張り出そうとする。

 変に口が滑る。
 俺らしくない。本当に自分らしくない。
 今会ったばかりの女に、請われるままに、事もあろうに昔話のリーディングだと?
 何処をどう考えても、神隼人がやらかすようなことではない。
 何故かこの家に入って、そしてこの女の顔を見て、声を聞くと、自分のペースが保てなくなる。

 ああ、それにしても妙な臭いだ。
 最初はさほど気にならなかったが、鼻の奥に塵が積もるように次第に濃く沁みついてきて、そこから頭も喉も、変に冷たく痺れて来るような、ひどい異和感がある。
 しかし頭は、重くなるどころか、不思議に軽く、晴れて来るようでもある。
 とにかく怪しまれないためには、一度繰り出した話は最後までしてしまわなければならない。

「いつ頃の話か、俺も詳しくは知らん。
 東国をさらに東北……いや、丑寅の方に進んで常陸、そこよりもっと北に進んで奥州に入る。そこに安達が原という場所があって、人を食う、年老いた鬼女がいたという。
 しかしこの女、別に最初から鬼だったという訳ではない……」

 隼人の、甘さと硬質さを併せ持った声が、早すぎず緩すぎもしないテンポで、風吹きすさぶ荒野の情景を描き出し始めていた。

 この世界に来て実感した一つに、「世界はこんなにも、濃く、はっきりした匂いに満ちているものなのか」という感慨があった。
 人家の周りは勿論、水辺、田畑の側、特に花も実も付けない樹木の下でさえ、現代よりも、どの香りも、印象的に際立っている。粒子の一つ一つの芳香成分が濃厚。そう思った。
 衛生的な現代の生活、特に体臭や生活臭をやや過度に嫌う傾向のある日本人の性向がそうさせているのかもしれないが、こうして比べてみると、元の世界はなんと匂いの無い空間だったことか、と驚いてしまうほどだ。
 それは勿論、良し悪しでもある。
 そうした「無臭社会」で生まれ育った自分の鼻粘膜も、さぞかし軟弱なのだろう。
 この世界の(きっと少し昔の日本もそうだったに違いないのだが)鮮烈な匂いを受けると、隼人の鼻はしばしば刺激のあまりに麻痺したり、あるいはその強さを痛みに近い間隔で受容することすらあった。
 確かに世の中は、匂いに満ちている。これがきっと生き物の住む空間の、本来の姿には違いない。

----しかし、それにつけても本当に、この臭いだけは何とかならないものなのか。----

[続く]



*鳰の浮き巣:カイツブリの巣。水草、アシ、折れ枝などを使って水上に作られる。夏の季語。
       詩歌では、寄る辺のない、哀れではかないもののシンボルとして詠まれることが多い。
*鳰の海:琵琶湖の古称の一つ。


[壱]←   [目次]   →[参]