安達が原[参]:一つ家の夜ばなし
いつ頃の話か、俺も詳しくは知らん。
東国をさらに東北……いや、丑寅の方に進んで常陸、そこよりもっと北に進んで奥州に入る。そこに安達が原という場所があって、人を食う年老いた鬼女がいたという。
しかしこの女、別に最初から鬼だったという訳ではない。
女の名前は……そう、確か、「岩手」というのだった。
岩手は都に出て、とある高貴な方のお邸に、乳母として出仕していた。
そして、そこの家のお嬢さんの世話を、赤子の頃から仰せつかっていた。
とても可愛らしい娘なのだが、惜しいことに、生まれつき重い病を患っていたんだな。
岩手はこの子が不憫で、それこそ自分の子同様……いやそれ以上に、目の中に入れても痛くないほどに可愛がり、何とか人並みの健やかな体になってほしいと、手を尽くして頑張った。
高名な医者を何人も尋ねて診せもしたし、ありとあらゆる加持祈祷を試し、神仏にも頼った。けれどどれほど願をかけようとも、娘の容体は一向によくならな
い。既に五歳になっていたが、まともに口もきけなかった……ということは、耳も聞こえなかったということかな、そこまではよく分からん。
そんな時に、頼って訪れた占い師がこう言った。
「この業病に効き目があるのはただ一つ。
それは、孕み女の腹の中にいる胎児。さらにその腹を裂き、生き胆を取り出すのです。
それを食べさせればたちどころに治る事でしょう」と。
まともな人間なら聞いただけで恐れを為すような、禍々しい話だが、姫のことしか頭にない岩手は、すがるようにこの話を信じた。
けれども都の近くでそんな凶状に及べばすぐに露呈してしまうし、主家の名にも傷が付く。そう考えた岩手は都を遠く離れ、旅先の地で妊婦に出会って殺す機会を窺っていた。
そうしてさっき言った安達が原の岩屋に住み付き、旅する孕み女と会う機会を待っていたという。
……その間、姫は大人になって、もしかして、そうだな、あんたの言う通り、既にはかなくなっていたかもしれんな。その辺はよく知らん。まあとにかく、そういう話なんだ。
都を出た時には四十手前ほどだった岩手も、北国での侘びしく厳しい生活の中で一気に老け込み、老婆の如くにやつれていたという。
ある嵐の日、旅の途中の若い夫婦が、安達が原にさしかかった。
雨に降り込められて困った夫婦は、岩手の住む岩屋の戸を叩き、一夜の宿を求めた。
その妻は孕んでいて、しかも腹の大きな産み月の女だった。そう、岩手が探し求めた絶好の獲物が、ようやくやって来たという訳だ。
若い女はほっとしたせいか、その場で産気づいてしまう。
その旦那は、気付け薬を買いに、道を戻って町へと走った。絶好の機会を岩手が見逃す筈はない。
夫が姿を消すと、岩手はその若妻を襲って縛り、天井の梁に吊るし上げた。
そして大きな出刃包丁を研ぎ、女の腹を裂き、取り出した胎児の腹を切り、念願の、赤子の生き胆を手に入れた。
その時、事切れた女の袂から、守り袋が岩手の目の前に落ちた。
岩手はそれを見て我が目を疑ったという。
岩手には、郷里に自分の子供がいた。
都に出仕するに当たって、まだ幼いその子を親戚に預け、その際に守り袋を渡して来たのだが、今腹を裂いたその若妻こそ……そういうことだ、自分が残してきた娘だったというわけだ。
岩手はそうとは知らず、自分の血を分けた娘を、そして孫を、自分の手で殺してしまった。
彼女はそのショック……いや、あまりの残酷な事実と良心の呵責に耐えきれず、正気を無くしてしまう。
気狂いになった岩手は、もう人には戻れぬ、ならば本物の鬼になってしまおうと、帰って来た夫をも刺し殺し、その三人の血肉を食らった。そして人の肉の味を覚えて、本当に鬼と化してしまった。
そして今度は、女と言わず男と言わず、子どもであろうと年寄りだろうと、安達が原の旅人を襲っては殺して食らう鬼婆となる。次第にその凶行は世間の人の噂に上るようになった。
……と、こんな話でな。あまり気色のいい話ではないだろう?
続き?ああ、話には一応続きがあるが、まだ聞くか?
そうか、まあそうだな。最後まで聞いた方が多分、少しはマシな気分で終われるだろう。
それから何年か経った頃、西国の徳の高い坊さんが安達が原を訪れ、日が暮れたので、岩手の家に宿を求めた。
ちょうど薪が切れていて、鬼婆は「奥の部屋を覗かぬように」と言い聞かせて家を出た。
どんな話でもそんな風に言うのは、大抵覗かれてしまう前振りだな。その坊さんも、かえって気になって奥の部屋を覗くと、そこには大きな出刃包丁と砥石、そしてまだ血のぬめりや臭いも新しい、切り落とされた人の手足や臓物、ドクロや骨が散乱していた。
坊さんは、「これが噂に聞く安達が原の鬼婆か、とんでもない所に泊まってしまった」と慌てて逃げ出すが、鬼婆はそれに気付き、狼や狐もかくやという速さで走って追い迫ってくる。
僧は、物の怪が相手なら仏の加護にすがろうと、荷の中から仏像を取り出し、一心不乱に経を唱えた。するとそれに応えるかのように、突然の雷が鬼婆の上に落ち、そのまま鬼女は死んでしまう。
すると禍々しい鬼婆の顔は、見る見るうちに、元の、優し飼った頃の岩手のそれに変化した。
それを見た僧は、この女が鬼と化したのも、子を思う心の闇ゆえと同情し、懇ろに葬ってやった。その場所は「黒塚」と呼ばれるようになった。
……なんだか随分長くなってしまったな。
土地によって若干伝わり方が違ったりもするが、俺が覚えてるのはまあこんな話だ。
一人住まいのご婦人に聞かせるには、何ともおどろおどろしい話だったかもしれんが。
語り終えて、隼人は残りの白湯で喉の渇きを癒した。
「なんとも恐ろしい……でも、もの悲しいお話ですのね。」
「まあな。元はと言えばその怪しい占い師が妙なことを言い出しさえしなければ……と誰しも思うが、まあ、所詮作り話の昔語りさ。」
「ふふ、わたしは図太い年増女、このようなお話に縮み上がるような娘子ではありません。そうでなければ、鬼の行き交う淡海の近くで、一人住まいなどしていられませんわ。」
と、鳰は事もなげに微笑する。
「でも、お話をうかがって、隼人さまがわたしをお疑いになるわけが分かりました。
本当に、ずいぶんと同じようないきさつですものね。
それに……最後に仰っていたでしょう?」
「?」
「土地によって違う伝わり方がある、と……」
「ああ。……それが?」
「ちょっと奇妙というか、面白いというのか……
このあたり……いえ、都でも、西国でも良く知られた話なのですけど、『岩手』という名の女の話は、古くから広く言い伝えられているのですが……」
「ほう?」
「でも、隼人さまの話とは何もかも逆なのです。
仏さまのような有り難いお方、そしてわたしたち女をお助け下さったご立派な方のお名前ですわ。
不思議なものですね。西と東では、そこまで同じ人が……鬼と仏ほどに隔たって語り伝えられているなんて……」
鳰は、心底不可思議そうに首を傾げた。
安達が原の鬼婆が、この世界ではまるで聖女扱いだと、この女は言う。
安倍晴明が都を脅かす鬼の王、そして女性に生まれた源頼光が飛行戦艦を駆って戦いを挑むこの異世界にあっては、そんな伝承の違いなどもはやミクロの差異でしかない。
とはいえ、安達が原鬼女伝説を最後まで語りきった隼人には、鳰の言う「この世界の岩手」の物語がどんなものか、無性に気にかかった。
「もしご興味がおありでしたら、今の鬼婆の話のご返礼に、お話申し上げましょう。
まだ雷も雨も止みませんし……それにもし私が鬼女だったとしても、少なくともこの話が終わるまでは、あなたを取って食うようなことはないと思えば、少しはご安心していただけるかもしれませんし、ね。」
そう言って鳰は、落ち着いた声で話し出した。
「岩手さま……わたしたちはそうお呼び申し上げております。
生きておいでになられたのは随分昔の話で……そう、うちのひい婆様が生きていた頃はまだご存命だったと聞いたことがありますが、詳しくは存じません。
岩手さまは、どこか遠くから、背の君の任官に伴って近江へお越しになられそうですが、お産の時に子供を取り上げる見事さは、日の本一と呼ばれた方なのです。」
「産婆か。」
「ええ。この辺りでは取り上げ婆、取り上げ女と申します。
岩手さまは本当に分け隔てなくお産を助けてくださる方だったと言います。
遠くても、例え朝まだきや夜更けでも、いとわずにお出かけ下さり、やんごとなきお方でも、物乞いの卑しい者でも、女であることの尊さ、赤子の命には何ら変わりがないと、あまねく手を貸してくださったそうです。」
「ほう、それは稀有な人物だな。」
「ええ、本当に、およそこの国にあの方ほどお優しく、素晴らしい女性はおわしません。
そしてその心根のみならず、岩手さまは、すばらしい取り上げの手技をお持ちでした。
産み月に満たず産気づいてしまった女や、体が弱くお産に耐えられまいと見捨てられた女からも、赤子も母も無事で済むように取り上げてくださる。
『仏さまの手』をお持ちだと、誰もが褒め称えたそうです。
そして岩手さまは……」
と、鳰は一息ついて続けた。
「どうしても……その、下からは取り上げられないひどい逆子や、普通では考えられない場所で育ってしまった赤子、そして母親は血を出し過ぎて死んでしまっているけれども中で辛うじて生きている赤子……
そういう難しい、尋常であればそのまま腹の中で死ぬしかない赤子を救うための技を編み出したのです。それが『分け取りの術』です。
……これは、孕み女の腹を、特別の小さい包丁で裂き、子を取り出すという、大変で難しい技なのですが……」
(て、帝王切開、だと……?この時代に????)
知れば知るほど、驚かされることばかりだ。
本当に、この世界の科学技術は一体、どうなっているのだろうか。
「腹を切って……その、子を出した後はどうするんだ?」
「術の前後は、蒸して作った濃い酒で腹の外と中を洗います。切り開いた跡は、速やかに、湯で煮た絹糸で縫い合わせるのです。」
「しかしそれは痛いなどというものではないだろう。母親はその後、生きていられるものなのか?」
隼人はわざと「無知な田舎の男」を装って、この時代の医療技術に探りを入れてみる。
「術の前には、痛さを感じないようにする薬を飲ませます。この作り方は秘伝で、知っているのは取り上げ女の中でも一握りの者だけなのです。
そして……血を沢山失う、とても危うい手技なのですが……これを考えて何人もに施した岩手さまは、母も子も、一人も死なせた事がなかったといいます。
ですが、後世の取り上げ女はやはり、方法はいくら教わっても、岩手さまのような神技をそのまま引き継ぐことはできず……
間違いなく正しい手順でも死なせてしまう事がありましたし、今もあります。
『分け取り』はあくまでも、他にやりようがない時にだけ施す、最後の手段なのです。」
さすがに隼人も、帝王切開の歴史までは詳しくは知らないが、確かな麻酔、消毒、確立された外科手術のメソッドと衛生管理が整っていなければ成しえない医療行為ということは分かる。
洋の東西を問わず、おそらくは早くとも近代を待たなければ一般的な施術が行われることはなかっただろう。以下にこの世界のテクノロジーが局所的に異常発達しているとはいえ、今日何度目かの驚きを禁じ得なかった。
実際には、外科手術の先進地であったヨーロッパにおいても、帝王切開の一般化は十九世紀を待たねばならず、しかも衛生管理が不完全であったため、施術された妊婦の八割強が予後不良で死に至るというリスクの高い方法だった。
それをこの時代に行い、「妊婦も胎児も一人も殺さなかった」という岩手の手腕は、伝説中の装飾が多分に入り混じっているにしても、現在の医療技術と比較してもなお、十分に驚異的だと言えた。
そして何より面白いのは、隼人の知る岩手と、鳰の語る岩手は、方や鬼婆、方やゴッドハンドの助産師という対極の存在でありながら、「妊婦の腹を裂く」という行為一点において、見事に共通しているという点だった。
「岩手さまはその後、九十を過ぎるまで元気でお過ごしになり、おかくれになられる前の日まで、赤子を取り上げ続けていたそうです。
そしてある日、お弟子の方に、全ての秘伝をお授けになり、『これから自分は、地蔵菩薩様のもとで取り上げを続ける』と仰って床に入り、そのまま眠るように、安らかにお亡くなりになったといいます。
枕元には、地蔵菩薩さまが現れて、そのままお連れになったとも……」
鳰は一言一句を有り難く噛み締めるように、夢見るような顔で語った。
「岩手さまの現世での肉体はおなくなりになっても、あの方は今でも、地の底で赤子を取り上げ、そして賽の河原で幼子を慈しんでいらっしゃると。
そう誰もが信じていますし、わたしもそう思っております。」
「地の底……
いや待て、何故そこまで技と人柄に優れた産婆が、死んでから地獄へ行くことになるんだ?」
「それは……これも蝦夷では言われないことなのでしょうか?
孕んだまま死んだ女は皆地獄へ行くもの、と言われています。
そして幼くして命を失った子供は、賽の河原で親を思って石を積むのですが、その悲しみが伝わると親も無明の中に迷ってしまう。だから鬼がその石を崩してしまうので、子供たちは更に泣いてしまうと。
岩木さまは、そのまま菩薩にもなれる徳を積み上げられながら、あえて地獄へ身を置いて、そこで無念の女たちや、哀れな子供たちを救おうとなさったのです。まさにお地蔵さまと同じ、尊いお心であらせられますわ。」
そう言うと、鳰は目を伏せて、右手で袂のあたりをぎゅっと握りしめた。
「それにしても鳰さん……あんたは随分と、お産について詳しいんだな?」
失礼だが、夫も子供も居るようには見えないのに……と言いかけて、幾らなんでも本当に失礼過ぎるのでやめた。
「……わたしも昔は、取り上げ女を生業としていたことがありましたから……
岩手さまは本当に、わたしどもの目指す……いえ、目指すなどというのはおこがましいほどの、二度と現れない、神様のような取り上げ女なのでございます。」
「そうだったのか。あんたも産婆を、ね。
しかし、立ち入ったことを聞くようだが……この近くの村にとっても、産婆は貴重な存在ではないのか?多くの女があんたを必要としているんじゃないかと思うんだが。」
隼人の言葉に、鳰は悲しそうに首を横に振った。
「昔のことです。わたしはもう……子供を取り上げることはできません。
その資格が、ないのです……」
「資格……?」
「……ここから先は、わたしの……面白くもなければ、怖がらせにもならない、つまらぬ昔話です。
お疲れのあなたにお聞かせするような話でもないと思うのですが、もしも聞いてくださるならば、雨夜の徒然にお話いたしましょう。ご迷惑でなければ、ですが……」
隼人は無言で、ゆっくりと頷いていた。
そんな立ち入った身の上話など、聞かぬに越したことはない。
そう思っていたのに、何故この時首を縦に振ってしまったのか。
後からいくら考えても、隼人には分からなかった。
あるいはこれもまた、この繭屋に充満する奇妙な臭いのせいだったのかもしれない。
「私は十六の年に、因幡の取り上げ婆のところに奉公に上がりました。下女として買われるような形でしたが、内弟子として扱っていただけるようになり、見習いとして働いた後一人立ちし、夫と知り合って所帯を持ちました。
今考えれば自惚れもあったのでしょうが……お師様が厳しく仕込んでくださったおかげか、次第に町や村の女の方からは良い評判をいただけるようになりました。
わたしも取り上げの仕事は好きでしたし、忙しいけれど気持ちは満ち足りた日を送っていました。
そうしているうちに、私は受領の北の方に召され、お産の取り上げを行うようにと命じられました。とても光栄な事ですが……万一不首尾に終われば厳しい責めを負わされる、重大な仕事でもありました。」
「ふん。何とも身勝手な話だな。」
隼人がそう言うと、鳰は虚しく微笑んだ。
「北の方さまはまだ十四歳と幼く、体つきも細く、まだ大人になりきっていらっしゃらないようなお方でした。
もともとあまり体が丈夫ではなく、つわりが終わってもなお枕が上がらず、弱って行くばかりでした。
産み月にはまだ二月も足りないのに流れる兆しが出て、このまま母子ともにはかなくなるよりは、『分け取り』に賭けて欲しいと……旦那様が直々に仰るのです。」
「……あんたはその経験があったのか?」
「修行の時、三,四回ほど手伝ったことはあったのです。
けれど、自分で実際に行ったのは一度だけ、それも既に死んだ母親から胎児を生きて取り出しただけでした。
お師様から、秘薬の調合の仕方も、道具も授かり、知識としてはしっかり得ていたつもりですが、これだけの場数しかないわたしが、お弱りの北の方さまに分け取りを行うのは、どうしても憚られたのです。
ですが旦那様が、万一のことがあっても、わたしや家族に一切の罪は負わせないように取り計らうからと、強いて仰って下さり……わたしはそれならば、と引き受けたのです。」
鳰は辛そうに眉間を押さえた。
その仕草だけで、話を皆まで聞かなくとも顛末は伝わってくる。
「しかし結局、生きて取り上げられなかったというわけか……」
隼人は先取りして呟いた。
「ええ、そうです。お方様の体はやはり、分け取りに耐えることは到底できませんでした。
そして取り出した赤子も……そもそも育ちが良くない子でした。あれは六月ぐらいで流れたのと大体同じ大きさでしたから、産み月に二か月も足りない状態では、取り上げた時に息が残っていたとしても、一刻と保ちはしなかったでしょう。」
「……それで、その受領は約束を守ったのか?」
「ええ。旦那さまの悲しむ様は、傍から見てもおいたわしいほどでしたが、約定どおり、わたしを罰したり、訴えたりするようなことはなさいませんでした。ですが………」
と、鳰はいよいよ唇を噛み締める。
「今考えれば、罪人として扱われた方がまだ良かったのかもしれません。
旦那さまが許しても、村や荘の人たちが私達を許してはくれませんでした。」
「……村八分、か……?」
鳰は顔を伏せたまま、小さくコクリと頷く。
「わたしたち夫婦は、文字通り石もて家を、村を追われました。
……死なせてしまったお子が男児で無かったならば、あるいはここまで激しく責め立てられることはなかったかもしれませんが……
山の縁までも追われ、夫は崖に落ちて……いえ、落とされて死にました。
何人かの女の方がとりなしてくれたおかげで、わたしは命までは取られませんでしたが……実はその時、わたしは、ようやく授かった子を身ごもっていました。でも、山狩り同然に追われ、雨風に打たれながら逃げる中で呆気なく流れてしまいました。」
「………」
鳰の語る、理不尽かつ凄絶な境遇に、男の身で何かかけられる言葉は見つからなかった。
「私は命からがら東へ逃げ、時には物乞いや盗みまでも働いて、淡海のほとりまでやって来ました。
行き倒れ同然の私を助けていただいた荘には、たまたま私が子を取り上げた奥様がいらして、その方のとりなしのおかげで住まわせていただき、今は繭家の番という、住まいと生業をいただいて、こうして生きながらえているのです。」
「なるほど。言ってみればあんたも『まろんど様』の一人というわけか。」
「そうですね、その言い伝えに助けられたようなものです。」
と、鳰はようやく表情を和らげて言った。
「ですが、もうあそこまで大きな失敗を犯しては、取り上げ女を続けることはできません。
と言うよりも……もうわたしの手が竦んでしまって、もう簡単なお産すら扱えなくなっているのです。
ですから私は、今のお蚕相手の仕事のほうが、ずっと気が休まって楽でいられるのですよ。」
「また失礼を言うが、なぜずっとお一人で?」
「……意固地な女とお笑いになるかもしれませんが、わたしは死んだ夫以外と沿うつもりはありません。
それに流れて以来、子の出来にくい体になってしまいましたし、今更こんな女と縁付いてくださる方も居りませんわ。」
「そうか、それは……変な事を言ってすまなかった。」
「いいえ、構いません。
こんなことを素直に人に……それも殿方に話すなんて、久し振りのことです。どういうわけか……」
呟きながら、鳰はまた、自分と隼人の椀に白湯を足した。
そのたおやかな手付きを見てふと、なぜ第一印象で死んだ母を思ったのか、理解できた気がした。
この女の手は、母に似ている。
腕の細さの割にふっくらと厚い手の甲、そしてしなやかな五本の指の中で、一つだけ短めの小指。そこだけが妙に、子供の手のような印象を醸し出している。
およそ隼人に、フェティッシュな趣味などない。
女の手になど、目をやることは滅多にないのだが。
「叶わぬこととは知りながら、何度も、夫にもう一度だけ……そして会えなかった子供に会いたいと、思う事があります。
以前高名な陰陽師の方にお会いした時、相手にされまいとは承知の上で、お伺いしたのです。」
そう言いながら、鳰は視線を隼人に流す。
急に生ぬるく、重さを孕んだ空気が漂った。
「するとその方は仰いました。
徒波のある日に、外の世界から来た殿方と床を共にすれば、愛しい男を自分の体で産み直すことが出来るのだ、と。」
鳰の声に、まるで今までとは別人のような、密度の濃い色香が籠る。
いつの間にか、しなを作るような格好になっている座り方。その腰や腿のあたりに、みっしりと重い肉感が湛えられていた。
異世界で出会う女まで、こうなのか。
濃密な秋波を放射する鳰の風情とは裏腹に、隼人は心の底からうんざりして、頭の中で一人ごちた。
いつもこうなのだ。
女の方が、「隼人が欲しい」というオーラを発し始めると、隼人の意識は急速に冷め、その相手は、無関心から一気に「嫌悪」の対象になってしまう。
別にお前が欲しいなど、最初から思っていないのに、なぜかそういう女は勝手に、隼人の無意識に寂しさだの、「深層では愛情を渇望している」だの、くだら
ない脳内補完を繰り広げ、自分がその、実際にはありもしない「空洞」を埋めたいと、それを埋められる存在だと自惚れて迫ってくる。
その自意識過剰ぶりには、「反吐が出る」以上のことは何も感じないというのに。
別にこの鳰という女に惹かれていたわけではない。
基本的には警戒の対象であり、良くて利用できる情報源であり、寂しさから人の良さを見せる人間としか思っていなかった。
それなのに、この女も結局、こんな風に俺を欲しがって来るのか。
鬱陶しい。本当に鬱陶しい。
鬱陶しいと言えばこの臭いも、本当にいつまでも、嫌らしく鼻粘膜の奥にまとわり続けて、本当に。本当に、閉口する。
なぜ家に入って一時間は経つのに、俺の鼻はこの臭いに一向に慣れないのだろう?
「この繭屋を一夜の宿に訪れてくださった旅の方は何人もおられました。
徒波の日にいらしたまろんど様も。
けれどもあなたのような、逞しく、美しい殿方は初めてでございます。
わたしの夫は、村一番に背の高い男でした。あなたの……そう、額のあたりぐらいには。」
そう言って鳰は、ゆらりと立ち上り、母に似た手で隼人の前髪に触れた。
そして隼人の鋭すぎる目を覗き込む。
「隼人さま。
あなたこそがわたしの、本当のまろんど様でございます……」
[続く]
引用画像:月岡芳年『奥州安達がはらひとつ家の図』より