安達が原[四]:雷電


地 :糸桜 色もさかりに咲く頃は
シテ:くる人多き春の暮
地 :穂に出づる秋の糸薄
シテ:月に夜をや待ちぬらん
地 :今はた賎が繰る糸の
シテ:長き命のつれなさを
地 :長き命のつれなさを
    思ひ明石の浦千鳥
    音をのみひとり泣き明かす
    音をのみひとり鳴き明かす
(能「安達が原」より)



「触るな。馴れ馴れしく触れられるのは嫌いなんだ。」
 隼人は右手で、鳰の指を険しく跳ねのける。
 バチリ、とどこか湿った音が弾けた。
 特に潔癖症と言うわけではないが、気安く接触されるのは、それが男であれ女であれ、隼人の強く嫌う行為だった。

 俺に触れるな。
 こともあろうに、その、母親に似た手で。
 親指の方から見るとしなやかな、小指の方から見ると子供のように見える指の付いた手で。
 叩き払った時のその手の感触は、雨夜にしても妙に湿っていて、気持ちが悪かった。
 気持ちが悪い。
 床に積もった湿り気と温さが、下から上へとゆっくり立ち昇るような感覚。

 彼の拒絶を無視するかのように、鳰は少し離れて立ち、隼人に横顔を見せながら、質素な小袖を脱ぎ始めた。
 絹を作るのが彼女の仕事とは言っても、それはあくまで納税物、もしくは換金のための商品であって、こうした庶民の女たちがまとう機会はほぼ皆無である。
 それを物語るかのように、鳰の肩を、そして腰から滑り落ちる着物は、着馴らしてこなれているとはいえ、くすんだ色の麻だった。
 それが足元に完全に落ちる。
 この当時、女性は下半身に下着を着ける習慣がなかったので、目の前には一糸まとわぬ鳰の裸身が、やや唐突に現れた。

 その肌は驚くほどに白い。
 脂身の半透明な白でも、動物の乳のような、クリーム色を帯びた白でもない。
 囲炉裏の細い火に照り映える部分は、なぜか緑色を帯びて青白く、どこかしら無機質に見えた。

 成熟した女性特有の肉感。そういう生き物と分かった上で見ても、胃から下の腹部が不自然に丸く膨らみ出している。
 誰が見ても、その丸みの理由は明らかだった。
 よくは分からないが、臨月と言うほどの大きさには程遠い。さしずめ6、7カ月を思わせる、微妙なボリュームである。
 隼人はいよいよ眉を顰める。

「さっさと服を着てくれないか。
 俺は行きずりの女と寝る趣味はないし、ましてそれが孕み女となれば尚更だ。」

 隼人はその姿を直視できず、顔は背けずに、視線だけを逸らす。
「心配することはありません。この子は、流れはしないのです。絶対に。」
「服を着ろと言った筈だ。
 それに何なんだ、あんたは。
 旦那を産み直すだのなんだの、戯言をほざくのは勝手だが……既に腹の中に子がいるというのに、その上俺に何をしろと言うつもりなんだ?」
「……この子は、黄泉孵りの子。
 わたし一人の体の力だけでは産み落とすことができぬのです。」
 隼人の方を振り向いた鳰の顔は急に妖艶に、そして口ぶりは更に大胆に変わっていた。
 裸身のまま、丸い腹を誇示するように、愛おしそうに両手でその部分を撫でさする。

 一際蒼く、明るい電光。
 その4,5秒後に、ドゥン!と大きな雷鳴、少し遅れて地響きが、家と土間をビリビリと揺らした。
 またどこか近くに、落雷があったらしい。

「どうか難しくお考えにならないで、隼人さま。
 あなたの子が欲しい、などと僭越な事を申し上げているのではないのです。
 あなた様は……まろんど様は、それ、今の稲妻と同じこととお思い下さって、どうかこの愚かで哀れな女に、少しだけ精を賜り下さいませ。わたしの乞うのはそれのみ。
 まして心までお分け下されなどとは、ゆめ申しません。」
「……稲妻だと?」
「今、田の稲はまだ育ち切ってはおりません。穂は出ていても、殻を剥けばそこには何もないか、固くて青い、ケシの実のように小さな粒があるばかり。
 稲妻が田に落ちて初めて、稲はその精を受け取って、白い米を稔らせることができるのです。……こうしたことも、蝦夷の人はおっしゃらないのかしら。」
 鳰は、どこか呆れたように、しかし隼人に物を教えるのが楽しくてたまらないという風も見せながら説明する。

 古くには、「つま」とは、「妻」だけでなく「夫」の意味も併せ持つ言葉であった。
 「イナズマ」とは、古くは「稲夫」とも書いた。
 稲は妻、雷は夫。
 稲妻は「夫の精」であり、それを稲が受け取る、つまり「受精する」ことによって、胚が成長し、米が稔る。
 雷や雨の増える秋に米が稔る自然現象を、夫婦の営みと重ね合わせた、古え人のイマジネーションから生まれた言葉である。

「わたしはもう二年も、この子と共に暮らしております。
 この子は……まろんど様の精をいただかなければ育たず、育たなければ腹から出て来ることが出来ません。」
「まるで化け物だな。そしてどうにも難儀な話だ。」
「そうなのです。
 この子を産み落とすために、わたしはずっとここで、殿方のまろんど様がお立ち寄りくださるのを、そして抱いてくださるのを待っておりました。」
「フン、そうやって男を食って、そこまでしか育っていないとはな。気が長いことだ。その間にあんたが年を取って、いずれ子を産めなくなるのとどちらが早いかね。」
「……食った、とは……?私はそのような……」
 流石にこんな言い回しは、この時代では通じなかったか。
「いや、寝る、という意味だ。」
 隼人は律儀に言い直す。
「確かに隼人さまのおっしゃる通り、ここまで育てるのには時間がかかりました。
 でも、わたしには分かります。
 あなた様から一度お情けをいただけば、この子は満ち月まで育つことができるはずです。」
「----何故そう思う。」
「あなたは特別なまろんど様だから、です。」
「答えになっているようには思えんが。」

「三日前……あなたがこの世に降り立った日のことを、わたしは知っています。」
「何だと?」
 隼人がこの世界に来た日を知っている。
 そして鳰は今、確かに「この世」と言った。
 つまり、隼人が単なる「余所の土地」ではなく、別時空から来たという事までも知っているということだ。

 この女は一体何なのだ。
 そして俺の知らぬ、何を知っている?

 少なくとももはや、単なるニンフォマニアや、妄念に狂った女というような相手ではないということは、認めざるを得ない状況だった。
 顔色を変えて、思わず目を自分の方に戻した隼人に、鳰は陶然とした顔で語り続けた。
「東の方に、滅多に見れないような徒波が立ちました。
 それも、いつになく強く輝く、緑色の徒波。
 私は、主さまにずっと教わって来たのです。
 『緑の徒波と共に現れた男と一つになれば、術で授けた子の月は、たちどころに満ち、まろんど様を待ち続ける私の一人夜も終わるのだ』と……」
 そう言うと、鳰は隼人に背中を向け、数歩歩いて、糸車のさらに奥にある引き戸を開いて見せた。

「隼人さま、どうぞこちらに来てご覧になって。」
「……」
 隼人はいよいよ警戒に神経を研ぎ澄ましつつ、距離を置いて鳰の背後に立ち、その頭越しに奥の部屋を慎重に覗きこんだ。




 板敷きで、奥の壁には大きな蔀(しとみ)があった。人のいない今は下ろしてあるようだった。
 部屋の中央には、鳰の腰ぐらいの高さの、机のような作業台がある。
 台の上には緑の桑の葉が敷き詰めてあり、その上には白い生き物が数十見え、僅かな蠢きから、死んではいない事が辛うじて窺える。
 これも蚕の幼虫か、と思ったが、そうではなかった。

 ぼってりとした形の胴を持つ、白い蛾である。大きさはさほどではない。

 翅はあるのに、台の上を飛ぶ個体は一つもなかった。
「隼人さま、お蚕の親を見るのは初めて?」
 どこか得意そうに、鳰が呼びかける。

 そうか、これは蚕の成虫。つまり蚕の蛾。

「糸を取るために、わたしたちは夏の繭をほとんど煮てしまいます。
 けれども全部煮てしまっては、来年のお蚕が居なくなってしまいますから……繭や薬にするのとは別に、こうして卵を採るためのお蚕も育てなければなりません。
 卵は冬を越して、また次の春にお蚕様になるのです。そのお世話をするのもわたしの役目。」
と言って、鳰は愛おしそうに、成虫を一頭、掌に載せる。
「ご覧ください隼人さま。
 繭になる前はあんなに力強く動き回って、桑の葉を沢山食べるお蚕は、親の姿になるとかくも弱弱しい生き物になるのです。
 この親たちは、翅が弱く、この室の中でさえ飛ぶことが出来ません。
 そして、ほら、この口。あるのかないのか分からぬぐらい小さいでしょう。あんなに好きだった桑の葉も、もう何も食べることが出来ないのです。
 ただ、雌雄が番い、卵を産むだけ。十日経つと皆、計ったように死んでしまうのです。」
 虫に限らず、鮭などの魚類、鳥の中にも、そうした「晩年」のうちに死ぬ動物は少なくない。
 子を作り、産み落として自らは生物としての使命を終えて死んでいく。時にその亡骸を子の餌として捧げまでもする。
 それは多くの生物が、生まれながらにして組み込まれた根源的なプログラムなのだろう。
「お蚕だけには限りません。
 生き物はみんな、大人の体になった時に、もう死に始めているようなもの……なのかもしれませんわね。
 ただ子を産み落とすために、何かに生かされているに過ぎないのかも……」
 全裸のままで、随分と哲学的な事を言う女だ。
 隼人は奇妙に感心する。
「生きること、成長することは、なべて緩やかな死だ。
 あんたの言うことは、概念としては的を射ているが……ならば誰とも連れ添わず、子を成さぬ人間は全て虚しい死人ということになるか。
 あんたはどうやら、こんな一つ家で戯言にすがって生きるよりは、尼寺にでも行った方が大成しそうだな。」
と、隼人は皮肉をこめて、口の端だけで笑う。
 まさに平素の隼人の顔が見えた。

「そしてわたしも、この子たちと同じなのです。」
 鳰は隼人の方を振り向き、掌の蛾を突き出して示す。

 そうか。
 こうして見ると、鳰の肌の白さの色味は、蚕の幼虫の、そして成虫の白によく似ているのだ。
 隼人はまた、何故か場違いなことを一瞬だけ思う。

「この腹の中の子を産み落とす。それだけが宿願で、果たすまでただ食べて、あたためるためだけの命。
 ただ一つだけ違うのは……わたしは待たなければならなかった。この子たちには十日という明らかな終わりがあるのに、わたしはいつ満ちるか分からぬ時を待って、その間だけは生きなければならなかった。
 何度も、まろんど様と一つにならなければいけなかったのです。」
 そう言って、鳰は手中の蛾を台の上に戻し、数歩後ずさり、床の上に被せてあった、薄汚れた布をバッと取り去った。




 そこに積み隠されていたのは、所々灰色に汚れた人骨。
 隼人から見えた髑髏の数は少なくとも三つあり、新しそうな髑髏の傍には、髪の毛の束も見えた。

 「『一つになる』とは……寝た後にバラして食う事までも意味していたのか。」
 隼人は驚きをさして顔には表さず、危機が迫るほど愉しみを覚える厄介な性分から、かえって落ち着きを増し、皮肉たっぷりに言い放った。
「ほほほ、あなた様が先ほど『男を食う』と仰った時には、さすがに肝が冷え申しましたわ。
 そうです。交わって精を賜った後、その血肉までもいただいて、そうして初めて『まろんど様』と一つになったと言えるのです。」
「なるほど、俺もよくよく間抜けな男だ。
 本物の鬼女の家に上がり込んで、延々と安達が原の昔話を語り聞かせていたとはな!
 ……それでどうする、俺を今殺して食うつもりか?生憎、多分美味くはないと思うが。」
「誓って申しますが、わたしは鬼ではありません。
 お疑いならわたしを殺した後、頭の皮でも肉でも剥いでごらんなさいませ。角を持ってはおりませんわ。」
「ほう?」

「わたしは鬼よりまだ卑しい……鬼に仕える下等な『式』。」
 そう告げる鳰の顔は、禍々しい中にもどこかまだ、人としての愁いを残しているように見えた。
「あなたに先ほどお話したわたしの身の上話の、最初の半分は本当のこと。
 元は確かに、人間だったのです。
 夫と腹の子を失って彷徨い、わたしは飢えと疲れと、子流れの傷が癒えずに死んでしまいました。
 その亡骸を鬼が拾い、都へと運んでくれたそうです。」
 その「都」が、あの湖上の黒平安京を示すということは、もはや聞くまでもなかった。
「主さまは、わたしの魂を、陰陽の術で戻してくださいました。
 そして、わたしが夫と子に心を残していることを知り、賽の河原から呼び戻すために、私に精をお授け下さったのです。」
「『主さま』というのは……鬼の都の王・安倍晴明のことだな。
 すると何のことはない、お前の腹の中に居るのは晴明の子ということか。」
「無礼な。これは主さまの深遠なる秘術。いただいたのはあくまでその『核』にすぎません。」
「----ならば、お前にくだらんマレビト信仰や食人までも吹きこんだのも晴明か。」
「お黙りなさい。晴明さまこそ、身も心も死んだわたしを救い、生きる望みを与えてくださった全能のお方。
 たとえ世間があのお方を、鬼だ魔だと、どんな言葉で呼ぼうとも、わたしには主さまからの命のみが、そしてこの子のみが全て。」
「そうか、もういよいよ話にならんな。
 それでお前は、俺をどうしようというのだ?
 さっきも言ったが、俺は腹ボテの女と寝る趣味もないし、ましておとなしく食われるつもりもない。」

 ここまで話を聞かされて、鼻粘膜を不躾にさすり続けるこの香りの正体の一つを、隼人はようやく知ったような気がした。
 この臭いは、桑の葉の臭いでもあり、蚕の臭いでもあろう。
 そして交尾し、産卵して死ぬだけの成虫の蚕は、その分泌物の中に、濃厚に雄の生殖活動を誘因する揮発物質が含まれている。所謂「性フェロモン」である。
 この臭いには、そのフェロモンが多分に含まれている。
 雄を誘い込む匂い。
 それはまた、鳰が『まろんど様』をこの繭屋に呼び込むためのものとも重なり合っているに違いなかった。

「……私に授けられた使命は、『緑の徒波の男』を、どのような方法でも消し去ること。
 理由までは知らされておりませんし、それをお尋ねできる身でもない。それでも……」
と言って、鳰は白骨の山の中に、ガシャリと右手を突っ込んだ。
 骨の何本かは折れ、また幾つかは床を転がった。
「わたしには、確かな予感があったのです。
 隼人さまほどお強い、そして並人とは違う生気の方にはお会いしたことがありません。
 『まろんど様』であろうとなかろうと、あなたから精を授けられたなら、この子を産みおおせることが出来ると。
 だから……もしわたしを抱いてくださるなら、主さまに背いても、お命だけはお助け申し上げようと、そう思っておりましたのに……
 どうしてあなたは……わたしを……拒みさえ、しなければ……!」
 再び骨の山が崩れる。

 その中から姿を現した鳰の右手には、鋭く光る小刀が握られていた。
 先端が反ったその形は、外科手術のメスによく似ている。
 というよりも、鳰が産婆時代に使っていた、『分け取り』用の手術メスなのだろう。

「ちッ」
 鬼婆物語の正体披露が終われば、後に残るのは戦いのみ。
 隼人は素早く身を翻し、後ろに飛び退って、囲炉裏に挿してあった二本の長火箸を右手に握り込む。
 頼りない武器だが、手近で使えそうなものはこれ一つしかなかった。
「……あなたに恨みはないけれど、主さまの命とあらば致し方無し。
 わたしの情けを受けていただけないとあれば、あなたを殺して血肉を食らうのみです。
 神……隼人さま!」
 幾分低く、濁るような声になって、鳰はそう叫びながら、メスを振りかざして隼人に迫った。
 火箸を顔の前で構える腕に爪を立てる、その腕の力はさっきとはうって変わって、獣を思わせるほどに強かった。
 火箸で何度かメスと斬り結び、隼人は鳰の胸元を踏むように蹴り上げ、そのまま後方に飛ばす。
 その反動で土間に降り立ち、構えを解かずに言い放った。
「貴様……俺は下の名前しか名乗らなかった筈だ。
 なぜ俺の名を知っている!!」
「わたしは預かり知らぬ事。晴明さまにうかがったまで!」
と叫び、鳰は信じられないほどの瞬発力で飛び上がり、そのまま隼人の体を組み敷いた。
 この動き、この驚異的な筋力は、まさしく何度も戦った鬼のそれだ。

 家全体に重く漂う桑の葉の香り、そして蚕の匂い。
 さっきまでは青臭い中にもどこか甘かった香りは、今や正体を現した鳰の口から漂う、生ぐさい悪臭と混じり合って、いよいよ混沌とし始めていた。
 鬼の匂いも独特で、それだけで吐き気を催すものだが、それよりもさらに、腐った魚のような、そして血がそのまま淀んだような、更に形容できない酷い臭い。

 先刻、鳰は自分のことを「式」と呼んだ。
 それは無論、安倍晴明をはじめとする陰陽辞が使役した「式」でもあろうが、その音は「シキ」。つまり「屍鬼」にも通じている。
 今の鳰が、一度死に、晴明の「術」で蘇らされたリビングデッド、いわゆる「ゾンビ」であることを考えれば、後者の方がより正確なのかもしれなかった。
 だから、彼女の中から発せられる臭いもまた、ただの鬼とは違っているのだろう。

「くそ!っ、離……れ、ろっ!!」
 ややもすれば力で封じ込まれそうになりながら、隼人は自分の首筋に口を寄せようとする鳰を、渾身の力で押し返した。
 鳰は自分を「鬼ではない」と言った。
 そして正体を露呈した今この瞬間も、確かに彼女の頭部にはどこにも角が見えない。
 しかし明らかに鬼と繋がる怪異の者から噛みつかれることには、嫌悪感と言うよりも強い恐怖があった。
 鬼に噛まれれば、自分も鬼になる。
 その現場を、隼人は何度も目の当たりにし、そして数秒前までは人間だった鬼を、何体も血祭りに上げて来たのだ。

 本能的に気が引けるのを押さえて、膝で腹を蹴り付けると、鳰は明らかに一瞬怯み上がる。
 その隙を付き、隼人は火箸を二本まとめて、その喉笛に深く突き刺した。

「ぐ、ぶぁ……!」

 声にならない声が迸り、鳰の体が激しく弓なりに反り返る。
「……っ……」
 自らの手と喉がぶつかる所まで刺しぬいて、肩を突き飛ばしつつ、隼人は一気に火箸を引き抜いた。
 勢いよく血が噴き出し、その後から、血の泡と共に、ビュウ・ビュウと器官から息が漏れる苦しげな音だけが聞こえる。
 もはや声さえ出せず、己の喉を左手で抑えるが、女の喉から流れる血は止まらない。
 そしてその血はなぜか、真っ赤な鮮血ではない。
 赤黒いどころか、チョコレートのような、淀んだ茶色の、ドロドロとした血液。
 そしてその耐えがたい悪臭は、まさしく先ほど鳰の喉の奥から漂って来たものと同じだった。
 長い間、外に流れることなく淀み続けた、羊水や胎児の排泄物が混じった、濁った血液。
 鳰の体内に詰まっているのは、血でも臓物でもない。
 晴明が与えた胎児の他には、それだけしか入っていなかったのだ。
 隼人は立ち上り、火箸を構えたままじりじりと後ずさり、外へ通じる戸口に向かう。

 急に動けば隙を突かれる。
 目線はあくまで鳰から切らず、摺り足で少しずつ、動く。
 喉を突かれた鳰は、苦痛の中で悶えるかと思いきや、ヒュウヒュウと空気を激しく漏らしつつも、隼人を見て、この上なく満足そうに、

 にこり

と微笑する。
 そして、言った。

「隼人さま。わたしはずっと、寂しかった。辛かった。
 でもわたしは、まったくの一人ではありませんでした。なぜなら、この子がいてくれたから。
 そしてもう一度、産み直した夫に会えるという望みがあったからです。
 でも、あなた様は男。
 あなたは……宿命の人とと離れ、置き去りにされ、世を隔てられ、二度とは会えぬ孤独に……さて、耐えることが出来ますでしょうか?」

 その表情は、傀儡のそれでも、まして物の怪でも鬼の顔でもなく。
 いや、人間の女にすらできない、天女や菩薩の微笑みを直視する僥倖があればまさにこのようなものか、とさえ思える。
 慈愛と、そして諦念と、悟りに満ちたような穏やかな顔付きだった。
 隼人がほんの一瞬、虚を突かれた次の瞬間。

 鳰は何の躊躇もせず、右手のメスに左手を添えて、勢いよく己の腹に突き刺すと、そのまま真一文字に恥丘まで切り裂いた。

 「………ッ!!!!」
 ドロドロの内容物を吹き散らかし、この上なく生臭いそれらが、隼人の視界を一瞬遮り、髪と言わず顔と言わずに降りかかる。
 それは火傷を負わせるほどではないが、体温よりは十分に熱く。
 臓物代わりの、熱い血滓を、隼人は必死で振り払った。

(こ、この女……!
 自分で自分に帝王切開を……??!!)

 この凄絶な光景の中、鳰は満足そうな笑いを浮かべたまま、背中から土間へ崩折れた。
 どさり、という音と同時に、彼女が自分で引き裂いた腹から、大きな塊が飛び出し、隼人の顔面に飛びかかろうとしてくる。
「うッ……!」
 危険を察知する、というよりも本能的な嫌悪感で、隼人は目の前に手を伸ばし、自分に襲いかかろうとする「それ」を掴み、これ以上自分に近づかぬようにそのまま強く握りながら保持する。
 「それ」が何なのか、分かりたくもないがこの状況から導かれる「もの」は一つだった。




 褐色の滓に塗れた「それ」には、手がある。
 足もある。
 頭のような部分がある。
 物言わぬ屍体と化した、いや、「屍体に戻った」鳰の腹とは、細くて強いチューブで繋がっている。

 このおぞましい、体長40cmほどのクリーチャーを、振り払って土間に投げつけようとすると、「それ」は必死で拒むように、手足を蠢かせて隼人の右腕に絡み付こうとした。
 動くたびに、少しずつ体を覆う反固形物と、ゼラチン状の膜が、ずるりと下に滑り落ちようとする。

 びしゃり。

 それらが土間に落ちると、ようやく頭部が姿を現した。
 まだ開かぬ、腫れぼったい二つの塊は目。
 小さいが鼻もあれば、口もある。
 そして前頭部には、しっかりと二本の。
 まだ柔らかい。
 角。

 これは胎児。鬼の胎児。
 そして鳰と晴明の子。

 その目が不意に、割れるようにカッと開き、開いたままの瞳孔が、隼人の顔を凝視した。
「ひうっ……!」
 思わず、隼人の喉から、上ずった声が走り出る。
 その反応は、まったく反射的だった。
 あまりの気味悪さと本能的な恐怖。
 隼人は躊躇もせず、その胎児を、いや、「鬼の胎児」を、思い切り土間の上り口の石の上に叩き付ける。

 さきほど、鳰は自分のことを、卵を産んで死ぬだけのカイコガに自嘲気味になぞらえた。
 多分その通りなのだろう。
 彼女は、この鬼の胎児が十分に育つまで体を貸して守り、それだけのために半屍状態のままに、かりそめの日々を生かされた、「培養パッケージ」に過ぎない。
 全てはこの胎児に命じられるままコントロールされ、プログラム通りに体温と栄養を維持し、時に命令に応じて旅の男と交わり、そして殺し、食いもした。
 ある程度の意思も感情も、記憶も保持しているものの、基本的には、「本体」と呼べるものはこの胎児だったのだろう。
 自ら腹を裂いてこの胎児を活動可能状態にしたからには、もはや鳰は用済みの抜け殻、脱ぎ捨てられた皮に過ぎない。
 その証拠に、血の滓塗れで横たわる鳰の姿には、もう、「数分前まで生きていた」気配も生気も何一つ残らず、まるで打ち捨てられた紙くずのようでしかなかった。
 人であろうと獣であろうと、死んでしばらくはまだ、生の名残が多少はまとわりついているものなのだが、そういう類のものが一切感じられなかった。
 そして、晴明の精を受けたこの胎児もまた、彼のコントロールの下にある、もしくは彼自身が一つの端末として、独自に、晴明のために動くようにプログラムされているのかもしれない。

 胎児とはいえ、鬼はやはり鬼だった。
 通常の生命体なら、石に叩きつけられた時点で、未熟な骨格も頭も割れてしまう筈が、鬼の子は、数秒ビクリビクリと痙攣した後、ガバッと起き上がり、早くも二足で自立歩行を始めた。

「くそっ、この化け物……!」
 隼人は飛び退って、一気に土間から通用口を目指し、走った。
 胎児もまた、血をしぶかせながら、まるでホバリングするように、信じがたい速さで走って追ってくる。
 鳰と彼を繋ぐ臍の緒は、どこまでも伸びるようだった。
 蹴り破れるほど薄い戸ではない。
 半ば焦りながら閂を外し、隼人はもつれかける足取りで外へと走り出た。
 胎児は戸口まで隼人を追ったが、そこで臍の緒の長さが尽きたらしく。短い手でそれを掴み、小さい口で咥える。
 胎内にいたうちに、牙まで生え揃っていたらしい。
 難なくブチリと臍帯を噛み切り、噴き出た古血を口から垂らしながら、胎児は隼人に飛び付こうと、執拗に追い迫った。




 戸口を出て、十歩も走らぬうちに、隼人は周囲の異変に気付く。
 空気全体がビリビリと震え、何もしていないのに、口の中には血のような味が急に満ち、歯そのものが締め付けられるように痛む。
 そして、長い前髪の表面がピリリと痺れたかと思うと、ゆっくりと逆立ち始めた。

(これは……そうか、ならば……)
 何を思ったか、隼人は逃走を止めて立ち止まった。
 胎児はこれ幸いと、隼人の左手に飛びかかり、しがみ付く。
 そして、目の前の男の顔を見て、ニタリと笑った。

 隼人はそれに臆することなく、次に胎児がどう行動するかを察知した上で、不敵に笑い返した。

「いい子だ……さあ、来い……」

 胎児はその声に満足したように、ぐぶり、と血だらけの口元の端を上げて気味の悪い微笑を浮かべ、小さな口を裂くように大きく開き、隼人の肘に噛み付こうとした。

 その瞬間、隼人は右手で持った鉄火箸を、巨大なピンのように、マントを縫うように刺し込んだ。
 ビカリ、と、烈しい電光が、「二人」の姿を、地面に焼き付けんばかりに、眩しく射抜き照らす。
 胎児は生まれて初めて、己の体で知る雷の眩しさに、反射的に目を閉じ、体を引いた。

「さあ、遅くなったがくれてやる!お前が欲しがっていた稲妻をな!!
 食 ら え !!!!!」

 二秒と置かず、青白く太い電光が、隼人の火箸目がけて真っ逆さまに落ちる。
 空と地面が、稲光で一瞬だけ結ばれる。。
 直撃だった。
 隼人の脳天から、右手の先まで、凄まじい電撃が一気に駆け抜ける。
 自分の体で直接雷撃を受けると、もはやドシンとかバシャンといった具体的な音は感じないものだという事を、隼人は初めて知った。
 口の中に満ちていた血の味が、弾けて、途轍もない苦さ、そして焦げた味になって、体中に広がる。

 激しく震える大気の中、隼人は衝撃のあまり後方によろけ、膝を突いた。
 そして胎児もまたこの強い雷撃をダイレクトに受け、隼人の手から離れ、3mほど後方に吹き飛ばされて転がっていた。
 その体には明らかな焼け焦げが見られ、僅かな体毛の焼ける厭な匂いとともに、体中の穴から臭い煙が細く上がっている。

「……ざ……ざまあ、見やがれ……ッ……」
 隼人自身も相当のダメージを受け、絶え絶えに乱れる息の下から、しっかりと悪態を突いた。

 雷撃が落ちる際には、地面からも空に向かって雷気、つまり電気をはらんだ空気が立ち上る。
 これは土壌中の電位が急激に変化するためで、雷撃を「迎える」作用があると言われている。
 つまり「次の瞬間にここに雷が落ちる」と示すマーカーのような現象である。
 隼人はそれを悟り、次に金属製の火箸をマントに刺した。

 「雷が鳴っている時に、金具のついたもの、金属製の装飾品は危険だから外すべき」と長年言われて来たが、実はこれが誤りであったことが最近になって判明している。
 むしろ金属製のものを身に着けていた方が、被害が小さく済む場合が多いという比較結果がある。
 雷は確かに金気を好む。
 その為、雷撃を受けた場合、電流の大部分が速やかに金属に流れ、その分だけ、人体を流れる電流が相対的に減るのである。
 結果的に、「感電」の症状は比較的軽微に終わり、死亡・大怪我の可能性は軽減されることになる。
 リスクとしては、電流の多く流れた金属部分の周辺に多少の火傷を負う程度と言われている。
 そうやって、隼人はマントに挿した鉄火箸、そして身に着けていた腕時計を使って、あえて雷の直撃を呼び、自分はダメージを最小限に抑え、胎児にはそのショックをモロにぶつけようとした。捨て身の行動であった。
 例え食らう電撃の量が同程度に留まっても、鬼の子とは、体のサイズがまるっきり違う。
 鍛え上げた成人男性である自分は耐えられても、まだ臨月に出来上がってさえいない胎児の体で同じ量の雷撃を受ければ、例え相手が鬼とはいえ、致命傷を与えてもお釣りが来るエネルギー量の筈だ。、
 その上、パイロットスーツには多少の耐熱・絶縁効果がある。そのことも計算に入れての行動だった。

 しかし、この激し過ぎる雷の中では危険な賭けではあった。
 一か八かの行為は功を奏した。現にあの化け物退治は、視界の向こうでブスブスと焼け焦げている。
 隼人はまだ重い痺れの残る頭を振りながら、グローブとマント越しに火箸を掴み、引き抜いて遠くへと投げ捨てた。
 想像通り、電撃を受け止めてくれた腕時計の周辺は赤い火傷になっていて、ビリリと痛む。外してみると、水泡が出来ている程度で、大したことはなさそうだった。

 ふう、と息を吐こうとした瞬間。
 もはや一塊の焼け肉と化した筈の胎児が、再び蠢いた。

(……な、何て奴だ……!)
 相応のダメージのせいか、即座に身構えることも適わず、隼人は身を起こすのが精一杯だった。
 胎児は最後に残った力を振り絞って、信じられないほどの距離を一気にジャンプし、隼人の目の前に飛びかかって来る。
 隼人はそれを、バシッと左手で払い落した。
 火箸は、先ほど投げ捨ててしまい、武器になりそうなものは他に無い。

 けれども、凶器ならばこの身にいつも、携えている。

「いい加減に、往生しろ!!」
 雷雨の中に叫ぶのと、右手の二本の指が胎児の目玉に、そしてその間の一本の指がまだ柔らかい頭蓋の眉間をえぐり込むのとは、同時だった。

 胎児は、
「きゅ、ひぃ」
と、いやに耳に残る奇声を発して、頭を地面に縫いつけられたままビクビクとのたうち回る。
 隼人の右手は同じ個所を正確にもう一度突き刺し、そのまま左手の二本の指を大きく引いて、喉笛を貫く。
 そしてそのまま、左に引くと、胎児の首の骨はその指の動きに合わせて

ゴコッ

 と折れた。
 短い首は断裂し、骨ごと「く」の字に折れ曲がる。
 そしてようやく、今度こそガクリと顔を横に垂らして、絶命した。

 その口元から、暗い黄色の瘴気が立ち上る。
 それは胎児の、そして鳰の残滓の気、最後に残って揮発しようとする魂、のようなものだった。
 隼人は反射的に、マントで口元と鼻を覆うが、その気体は構わずに彼を包み、耳から入り、そして、声ではなく、頭に直接語りかけて来た。

[続く]


冒頭引用部分・意訳

地謡:糸のようなしだれ桜が、色も盛りに咲く頃は、
鬼女:花見に来る人が多い晩春。
地謡:穂が糸のように長く伸びた、秋のススキは
鬼女:月に夜を待つのでしょう。
地謡:今はまた卑しい女が糸を繰る。その糸同様に
鬼女:長い命のつれなさを
地謡:長い命のつれなさを、思い続けて夜を明かし、
   声をあげて一人泣き明かすのです。声をあげて一人泣き明かすのです。

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指で突き刺して終わろうと思ったんですが、「物の怪だし、もうちょっとしぶといだろうし、隼人ならダメ押しするんじゃないかな」と思った結果、念仏の鉄さんになってしまいました。アルェ〜。