偽京極小説「美味しんぼ」

〔配役〕
山岡士郎@中禅寺秋彦
栗田ゆう子@中禅寺敦子
海原雄山@堂島静軒
富井副部長@榎木津礼二郎
関口先生@関口巽
荒川夫人@一柳朱美

第一話 「京都のカタチ」

 ちりん。
 九月ももう半ばである。この風鈴、その室内で鳴ったものではない。畢竟、階下の何処かの部屋で、無精な住人が外さずにいるのだろう。
 時期を逃してしまえば、最早風流でも何でもない。
 そんなことを言いたげに、その男は仏頂面の眉根をさらに顰めた。
 皺の寄った黒いスーツ。ぞんざいに結ばれた黒いネクタイ。手入れのなっていない黒い革靴。小耳に挟んだ鉛筆だけが赤い。どういう神経か、机の上に「骨休め」と書かれた看板を下げている。
 この辺りではまずまず立派な造作といえるこの社屋、外には「東西新聞社」と琺瑯引きの看板が掛かっている。
「うわはははッ!!こらッ!何だ山岡!仕事中に本なんぞ読んで、全く、給料泥棒とは君のような奴のことをいうのダ!!」
 彼の直属の上司・富井副部長は、いつもの素っ頓狂な喋りで山岡に近づき、彼が読んでいた冊子を強引に取り上げた。
「何です、全く、頭脳労働の価値とシステムを解さない人は、これだから困る。”親が死んでも骨休め”という言葉をご存じないと見えるね。
 大体その本は、副部長が御覧になっても楽しいような代物じゃありませんよ。」
「何だ!カストリ雑誌の類かと思ったぞ!つまらん、全くもってつまらんぞ!!」
 妖怪ばかりが描かれた和本に、一瞥だけくれて、富井は草子を山岡に返す。
「兄・・・じゃなかった、山岡さん。」
 すぐ隣の机で二人のやり取りを聞いていた栗田ゆう子が、呆れて口を出す。
「もう、記事を書かないなら、せめて取材に出たらどうなんですか?」
「ふん、分かっちゃいないね君も。僕は十四歳の時に、肉体労働は金輪際やるまいと固く誓ったのだよ。取材なぞは鳥口君に任せておけばいいのだ。」

 ばたん。ちりん。
 乱暴なドアの開閉に刺激されたかのように、何故かまた風鈴が鳴る。
「ふう。関口先生にも困ったもンだよ。」
 もう一人の部員である、女流記者の荒川が、外回りから帰ってきたようである。朝からの外出で、粋な切り髪が少し汗ばんでいる。
「ほほう!君のようなやり手が苦労するとは、何があったか僕は非常に気になるゾ!!さあ、遠慮しないでこの僕に話して見給え!」
「言われなくたって話しますともサ。いえネ、関口先生の原稿遅いは毎度のこと、その位でヘコんでたら、あの人の担当なんてできゃアしません。」
「まあ、あの男は筆も遅いが頭の回転も相当にのろい所があるからな。あれに日刊連載を持たせなかったのは君の才覚と言うべきだろう。」
「山岡さん」
栗田は、いささか訝しげに山岡の方を見た。
「関口先生のことになると、急に生き生きとして貶すんですね。」
「あれは中学で僕と同級だったからね。昔からあんな感じの男だったのさ。」
「話の腰を折っちゃ困りますよゥ、山岡の旦那。・・・で、先生が言うには、数日前から塞ぎの虫に憑かれたみたいでどうにもいけない、原稿が書けないの一点張りですよ。困ったもんさね。」
「でも、困りましたねえ。先生の『目眩』の連載が中止なんてことになったら・・・」
心配そうに腕を組む栗田をよそに、山岡は仏頂面のまま、話題を無視して席を立った。
「山岡さんっ!こんな時に何処へ行くんですか!」
「神田だよ、神田。稀覯本が入った、と馴染みの店から連絡を受けているのでね。」
「見損ないました!お友達が心配じゃないんですか!」
「あれが友人なんて立派なものか、只の知人だよ、知人。」
「そうだゾ栗本君!!実は僕もアレとは先輩後輩の仲だが、昔からあの猿の愚鈍なことと言ったら!」
「副部長、私は栗田ですってば!」
「山岡の旦那、言いたかないけど、こんな時くらいお役に立っても仏罰は当たらないでござんしょうよ。」
「ふん。」
 彼にも言いたいことは五万とあるが、そこは原作のノリを尊重するに如くは無し、山岡は仕方なしにその重い腰を上げ、言った。
「最初に言っておくが、僕は高いぞ。」

 軒下の犬やらい。香の香り、道行く上げ髪の女性の、白粉の香り。
 語らい歩く人達の京都弁。山越し、下弦の月。鐘の音。
 厭だ。
 関口は、暑くもないのに手の平といわず背中といわず汗を滲ませ、煎餅布団を頭からかぶり、半覚半睡のうつつを彷徨っている。
 厭だ厭だ。あんな。あんなことは二度と。

「あなた。タツさん。」

 妻の声が、彼を一瞬で現実に引き戻す。
「お客様がお見えですよ。東西新聞の方・・・」
「ああ、一寸待っていただいてから通してくれ。」
関口は、呼吸を整え、よれた着物の襟を正した。

「何だ、山岡じゃないか。」
関口の間の抜けた挨拶に、山岡は更に仏頂面を顰めた。最早「凶相」というが相応しい形相である。
「何だとはご挨拶だな、関口君。大体、僕が不得手な肉体労働をしてまで君の所に来てやってるんじゃないか。全く、こんな男を仕事上とはいえ「先生」呼ばわりするのも嘆かわしいことだよ。まあいい、単刀直入に聞くがね、関口君。」
「書けないって、どうなさったんです?」
山岡の言葉を遮って、栗田が尋ねた。
「京都に取材旅行に行くまでは、(比較的)好調だったじゃないですか。」
「そうなんです・・・京都から帰ってから、急にこの調子で。」
関口は口を開く。が、声にならない。失語症の傾向が、何時になっても抜けない。ひりついた喉。
「関口先生・・・何かあったなら教えて下さい、力になりますから。」
「ぶ・・・」
「えっ?」
短く栗田が反駁し、耳を傾ける。
「ぶぶづけなんだよ、山岡。」
「ふん、くだらない。そういう訳か。」
腕を組んだままで、即座に事情を理解した山岡が、冷たい視線で関口を見た。
「全く、曲がりなりとも小説家とは思えないくらいに無知蒙昧だな、関口君。」
「えっ・・・ど、どういうことなんです、山岡さん。」
「何だ何だ、関口君はともかく栗田君、君が知らないのは問題だな。まあ、我々関東人には縁遠い風習だからな。」
山岡は、呆れたように栗田に視線を移す。多分、本当に呆れているに違いあるまい。
「仕方ないな、なら説明しよう。”ぶぶづけ”とは、京都では”お茶漬け”を指すんだよ。また、茶漬けに向いた漬け物の名前でもある。それでだな、京都では、玄関先で客の用件を聞き、相手が帰るときに”ぶぶ漬けでも食べて行って下さい”と声をかけるんだ。社交辞令だな。」
「ああ、分かりました。別に上がって欲しくもなくても、”中でお茶でもどうぞ”と言うのと同じなんですね!」
「うん、栗田君は関口君よりずっと理解が早いな。まさにそういうことだ。まあ、ここで”茶”ではなく”茶漬け”というのが分かりづらい所だがね。」
「じゃ、まさか先生は・・・」
じわり。
また関口の手に汗が滲む。
「そう。君の思っているとおりだ。」
やめてくれ。厭だ厭だ厭だ。
「関口君は、社交辞令を真に受けて、本当に食いたくもない茶漬けを食ってしまったのだ。」

ちりん。
なんでだかよくわからんが、とにかく何処かで風鈴が。

山岡の長広舌はなおも続く。
「京都の人間というものは、我々東夷には計りがたいものさ、栗田君。未だに「ここが都」という根性が抜けないのだ。それがどう現れるか。観光で訪れた他地域の人間を、腹の中で莫迦にする。例えば、同じ店でも、鮮度のいいものは地元の人間に売り、物の価値の分からない田舎者には日付の古い物を売る。そんな事は日常茶飯事だ。当然関口君は作法知らずの田舎者として大笑いされたに違いあるまい。」
「じゃあ、先生はそれで・・・?」
「まあ関口君は、元より自閉症の鬱病体質の失語症の物知らずだからなあ。」
「ど、どうすればいいのかしら。」
「そんなもの、好きなだけ籠もらせておけばいいのさ。じゃあ僕は神田に。」
「待って下さい!連載が落ちたらウチの信用問題なんですよ。山岡さん、あなたは蘊蓄しか脳がないグータラ社員なんですから、それを働かせて下さいよ。」
「(ページの都合上)諒解したよ。なに、茶漬けの事は茶漬けで解決するさ。(そうか?)」
そう言うと、山岡は立ち上がり、素っ気ない声で関口に語りかけた。
「関口君、小腹は空いているかい。」

「うわははははッ!!経費で京料理とは、たまには山岡も気の利いた提案をするな!!きっと明日は大雨だ!!さあ続け、下僕ども!!そして心ゆくまで食べロ(巻き舌)!」
 夜の赤坂。結局関口を連れ出した山岡は、勝手に付いてきた富井副部長とともに、目当ての京料理の店に向かっていた。
「ふふふ、いつにも増して大はしゃぎですね、副部長。」
「・・・誰が下僕だ。」
 目当ての店に着き、玄関に入ろうとした瞬間。
 雰囲気がいつもと違う。平素ならば、仲居が出迎えるはずが誰も居らず、店内の空気がざわついている。
「お前では話にならぬ、主を呼べい!」
襖一枚を隔てた向こうから、妙に人の印象に残る響きの、男の声がした。
わかりました、と怯えた声の仲居が部屋からほうほうの体で駆け出し、入れ替わりに和服の男が部屋に入る。多分彼がこの店の主なのだろう。
「せ、先生。手前どもの仕事に、何か手違いでもございましたでしょうか。」
「手違いも何もない。何だこの茶漬けは。このような物を、京極さんにお出しできると思うか!」
声の主は、店の主を威圧しながら、部屋から廊下にのし出てくる。

「あ、あの人はもしや・・・?」
栗田の声を受けて、山岡が続けた。
「海原雄山、さ。」
素っ気ない物言いとは裏腹に、山岡の表情は更に顰められ。
ちりん。
何かの、鈴が鳴った。

(第二話に続く)