山頭火の障子

 張りかへた障子のなかの一人(句集「鉢の子」より)

 種田山頭火(1882−1940)の句は、定石の「5.7.5」の枠組みを無視したもので、初めて見ると違和感をおぼえるかもしれない。有名な句では「分け入っても分け入っても青い山」などがある。版画家の小崎侃氏が山頭火の句を題材にした作品をライフワークとし、よく喫茶店やギャラリーなどに掛かっているので、見たことがある方もいるかもしれない。
 早大中退後、故郷に戻り酒造業を営むが破産。その後、妻子を捨てて出家。行乞流転の旅に出て、その途上で句を作った。1940年、旅の地で泥酔したまま死亡・・・と、かなり破天荒な生涯を送った人で、句も旅の心象をデリケートに切り取って謳ったものが多い。日本の漂泊詩人を語る際には、西行・芭蕉と並び外せない人物でもある。

 前置きはこれくらいにして、「張りかへた障子」の句について。
 盆前や年の暮れに貼り替えた障子。部屋にいればそれらに囲まれる。糊の匂い、生乾きの桟、妙に白くて光る障子紙。その時の心持ちは、何だか部屋全体が余所余所しく他人行儀で、妙に落ち着かないような、訳もなくうら淋しいような心境になってしまう。戸を隔てれば家人がいるのに、奇妙な独居感に包まれる。・・・たかが建具を手入れしただけだというのに。
 日本人にしか分かるめえ・・・なんて言い方は本意ではない。しかし、その国特有の建具(日本ならば障子・襖・引き戸・雨戸・縁側・畳・薄縁・簾etc)が育む原体験というものはどうしようもなく存在して、何らかのメンタリティを形成するものなのだろう。
 ともあれ、幼い頃に私が感じた、あの寒々しい感覚は、一種の独居感だったのだなあ・・・と気づかされた一句であった。
 山頭火といえば旅路の句、というイメージが強かっただけに、「住居」での一齣を描いた句もあることは少しだけ意外であった。句集を読んでみると、実はその「仮の宿り」での暮らしを詠んだ句も多く存在している。

 山頭火の句集は様々出ているが、ちくま文庫の「山頭火句集」(村上護編)が、色々な面で手頃である。
 小崎侃氏の版画の口絵も多く収録されておりお得。本体価格951円。

男の子女の子

つよくやさしく男の子
やさしくつよく女の子 (浜田広介)

 何というか、下手に説明なんか付ける必要はないだろう。いいフレーズだ。
 アメリカの私立探偵が例の有名なセリフを語るより前に、強さも優しさも欠かせないものであることを、終始優しく言っている。
 浜田広介は1893年生まれ、1973年没。氏が子供の頃、強い女も優しい男もいたけれど、「女の強さ」「男の優しさ」を言葉にすることなんてそうそうなかっただろう。だから価値ある一言だと思う。

 浜田広介は、山形県高畠町の出身。
 小学校の頃大いにはまり、宮沢賢治よりもずっと好きだった・・・のは、話自体のわかりやすさもさることながら、やはりどこかで同郷の温度・湿度を感じ取っていたせいなのだろうか。
 何しろ当時は、傾倒するあまり、将来の夢は「童話作家」とあちこちで書き散らしていたというのは嘘のような実話だったりする。笑ってくれ。

ゴハンですよ

 えー、今回はとある漫画の中のキャラのお話。まずはその作品の概要をご覧下さい

<概要(須賀原洋行「それはエノキダ!」 週間モーニング掲載)>
 作者の前作「気分は形而上」に登場した「榎田くん」とその妻「エミちゃん」を主人公とした作品。何事にも超几帳面で、物理的にも精神的にも「キッチリ」してないと気が済まない榎田君には、全く対照的な超テキトー人間・「高木君」という友人がいる。
 「高木君」にも家庭があり、テキトーに付き合ってテキトーに結婚した妻・「マルミさん」と娘と一緒に、面倒臭いので嫁の一家と同居している。

 で、今回話題にしたいのは脇役だったりする。
 マルミさんの母、「マルヨさん」は、娘とは似ても似つかぬ段取り家事の達人、という設定。彼女の設定で面白いのは、「世界一美味しい『ゴハン』を作る人」というキャラクターが付与されていることだ。
 「料理」でなく「ゴハン」。ここが肝要。

 時々彼女が主役になるエピソードがある。
 マルヨさんの名声を聞き、和洋中の名だたるシェフが味勝負を挑みに来たり、教えを乞いに来たりするのだ。一緒に厨房に立って手先を見守るのだが、下ごしらえが不十分だったり、炒め方や火力調整の技不足があったりする。手間を惜しまぬ訳ではなく、ごく普通の主婦がするような、一連の流れ作業の中で完了する普通のゴハン作りだ。
 しかし、出来上がった「ゴハン」に箸を付けるや、巨匠も評論家も涙を流して(比喩でなく、本当に、直径30cm位の涙を流す)上手さに震えるのだった。

 ま、ギャグ漫画に対してあれこれ論を立てるのも無粋とは思うのだが、明確に「ゴハン」という言葉を使うことによって、「調理」と「料理」の間にあるのと同様に、「料理」と「ゴハン」の間にも淡い色彩ながら明確な一線があるのだということに気づかされる。この体験はなかなか面白い。
 マルミさんの「ゴハン」の美味さは、技術や方法論を越えて超自然の域に達している。
 実際、家人が拵える「ゴハン」が、時にプロの料理人による料理よりも美味しく感じられることについては、容易に考えつく理由が幾つもある。
 まずは、あらゆる客に代価相当の価値を認めてもらうためにはどうしても最大公約数的な味付けにならざるを得ないが、家庭ならば各人の好みや健康状態に合わせて味を決められる、という科学的な側面であり。
 「おふくろの味」というようなノスタルジーであり。
 「みんなで食べると美味しいねえ」「心がこもった料理は美味しい」という安直な(しかし真理ではある)メンタリティであったりする。
 のだが、マルミさんのゴハンにはそんな理由付けはない。その教訓のなさが、エピソードをギャグたらしめている一番の要因であり、この超自然さが何より面白い。
 そして、読み手の心に少しだけ「そーか、そういえば『ゴハン』ってのは『料理』ってのとはちょっと違うんだよな」という印象を残す。言葉としては『献立』に一番近いが、やっぱりニュアンスが違う。『おかず』という言葉とさえ微妙に差異がある。こういう「気づき」は実に気持ちいい。

(個人的に須賀原洋行の漫画自体はあまり面白いとは思わないのだが)