第二部 遺産都市

第一章 コーンウォール戦役(2)

 
 「桜井さん!」
 野次馬でごった返し始めたジムで、マルクは漸く桜井の姿を見つけた。173cmと決して高くない身長の彼は、人に囲まれると人一人探すのも大変なのだ。
 ジム、といっても、このベースキャンプ自体が廃校になった高校の建物を改造して作ったものなので、元は体育館である。故に中二階にぐるりとギャラリースペースがあった。
「よう、マルク。今日は矢鱈に見物人が多くないか?」
「みんなあの娘を見たくて来てるんですよ。」
と、彼は手にした名簿とファイルを桜井に示し、
「で、彼女のことなんですけど、誰と対戦させます?」
「…全く、面倒だな。これだから…」
これだから女は云々、と続くはずの桜井の言葉をマルクが遮った。
「俺がやってもいいですよ。」
「馬鹿言え、そんな下品なもの、人に見せられるか」
「…俺って、そんなに信用ないですか。」
「女に関してはな。…大体170cm台で、極力スケベ面してない奴でも当てとけ。」
「はいはい、またつまんなそうな顔して。本っっ当に女嫌いなんですねえ、桜井さんは。」
 桜井は、これには答えなかった。煙草を取り出そうとして「禁煙」の表示に気づき、また黙って胸にしまい入れた。

 テストスパーリングが進むに連れて、男どもの数が増えてきた。
「おい」
人いきれに閉口し、更に苦虫を噛みつぶした顔の桜井が、低めの声を更に低くして、マルクに言った。
「お前、何であの女の対戦なんか、一番最後にしたんだよ。」
「やっぱりホラ、本日のメインイベントですから。」
「いつプロモーターになったんだよ、お前は現場組だったろうが。」
 南米系のマルクは、嘗てメキシコプロレス、ルチャリブレの選手、所謂ルチャドーラだった。比較的小柄だが多彩な技を持つマルクは、ルチャの真骨頂である空中戦を白兵戦技術に生かせないのを常々嘆いていた。桜井の言は、その前歴を踏まえたものである。
 「じゃあこれは何回戦?」
ヒルダがチェックシートをのぞき込みながら話しかける。マルクと並ぶと、その身長が際だった。
 「もう”セミファイナル”じゃないですか。」
ホセも少しふざけて、ホセと平仄が合うような冗談を言う。誰もが浮かれた雰囲気に、桜井がますます憮然とした。
「俺はなあ、女と人混みは嫌いなんだ。」
「あ、桜井さん、出てきたわよ。」
 自分が「人込み」にカウントされているとは知らず、ヒルダがはしゃいだ声を出した。

 そんなに皆今日は暇なんだろうか。ラルがそう思わざるを得ないほどの人出だった。
 尤も、こういう空気はバイエルンでのベットファイトで慣れている。多分、実際に賭をしている者もいるだろう。
 長い髪を後ろで結って、ヘッドギアとレガース、それに指なしタイプのグローブを着けると、スッと平常心になった。その瞬間、”険しい”というよりも実に凛とした表情に変わる。その顔付きは、桜井に抜き身の刀を思い起こさせた。
 この動騒を早く鎮めたい桜井は、性急に号令をかけた。
「15分戦い抜くか、ギブアップが入るまでだ。始め!」
 一層高く沸き上がる歓声がゴング代わりだった。

 周りの視線など一向構わず、機先を制したのはラルの方だった。
 信じられないほどのスピードで相手の懐に飛び込み、何故か一瞬動きを止め、上目づかいのデモーニッシュな表情で対戦者を睨み付けた。
 対戦相手には、そう見えた。その刹那、何度かの体重移動で、靴の裏がキュキュッと音を立てた。と同時に思い切り体重を乗せたワンツーがボディに叩き込まれ、一呼吸置く間もなく、遠目の間合いにポジションを移動していた。
 彼女のシャープな動きに目の付いていかなかった者は、シューズの音しか聞かせてもらえなかった。
 相手が虚をつかれて体を落とそうとした所に追いかけて、側頭部に右、次いで左を落ち下ろす。パンチには一々軽妙なフットワークでバネが効かせてあり、しかも左も右も込める力が同等である。よほどボクシングを叩き込まれていないとこうはいかない。
「おわ、えげつなく強いよ、こいつ。」
 今のコンビネーションに見とれ、マルクが呟く。
「でも、現場じゃボクシングなんて…」
「いや、そうじゃない。」
 ヒルダの言葉を、桜井が冷静に遮った。
 立ち上がって来た相手の蹴りを何発か、膝を曲げた片足で巧みにガードしながら、反撃のチャンスには、腰から回るようなフォームで、痛烈なハイキックを繰り出している。ラルの動作の一つ一つに、無駄のないフットワークがつき従っていて、美しい舞をすら思わせた。
「ムエタイ風、ですかね。」
 格闘技にさほど詳しくないホセでも分かるキックだった。
「あいつ、えらく喧嘩慣れしてますよ。打つ場所もいちいちえげつないし。」
と言ったマルクに、桜井が相槌を打った。
「ああ。その上研究熱心なんだろう。」
 桜井は、いつも冷静な男である。対象が誰であれ、長所は認め、短所は指摘する。それはラルに対しても同様だった。
 おそらく彼女は、肉体的なハンデを埋めるために、数々の格闘技を研究し、今の体の使い方を身に付けたのだろう。その結果、全体のバネと、鞭のようによくしなる手足を手に入れたのだ、と桜井には分かった。
 打たれ、投げられて、投げ返す。攻撃方法が目まぐるしく変わる。
 まだまだ荒削りで、完成されてはいないが、決して打たれ弱くもないし、基本の受け身も良くできている。それより何より、妙に美しい動きなのだ。任務さえなければ、桜井ですら目を奪われてしまう。そして、誰より魅入られているのは他ならぬ対戦者のように見えた。
 --この上に、実戦用の体術を教え込んだら、どこまで高まっていくだろう?--
 やはり桜井は、魅入られてしまっていた。ラルがグラウンドで相手の脇を固めて、しばらく経つのに気が付かなかった。完全に腕が極(き)まって(スパーリングとは言えないほどに完璧に)いるのに、かけられている方がギブアップしていない。しかも彼は満足に外し方を知らないようだった。
 「馬鹿野郎、関節外せ!誰か止めろ!!」
我に返った桜井が、飛び出して試合を止める。相手がギブアップしないために、ラルも止め所が分からなかったと見える。触って確認すると、骨も筋も無事だった。
 「誰が骨折るまでやれと言った、この馬鹿!!」
桜井の罵声に応える余裕はなかった。さっきまで息一つ乱していなかったラルが、一戦終えて、漸く呼吸を荒ぶるままに解放している。尤も、汗が殆ど出ておらず、食い足りないような印象があった。
「おい、まだできるか?」
「やります」
 桜井の意外な言葉に反応し、ラルが立ち上がろうとする。
「よし、立ち技は分かった。組み技を見せてもらう。」
と言って、桜井が上着を脱ぎ捨てた。
「俺が相手だ。好きなようにやってみろ。」
同時に、激しいブーイングが巻き起こった。
「え〜!?そりゃ酷すぎるぜ、隊長!!」
「桜井さーん、案外スケベ?」
「あ〜あ、あの娘も可哀想だな。大人げないよなあ。」
「…あの人らしくないですねえ。」
 意外な展開に、ホセが呆気に取られた。それにマルクが陽気に応える。
「いいじゃん、こんな見物そうないぜ。俺はあの娘に3000だ。どう?」

 --凄く強いんだ、この人。--
 ブーイングの内容で、それが分かった。
「外野が五月蝿いが、構うな。…準備いいか?」
「OKです、どうぞ。」
 と、双方構えて、ラルは一瞬躊躇した。
 変わった構えである。ボクシングのスタイルが基本のラルの構えに対して、桜井は極端な半身に構えている。思い切り前に出された肩から右半身が丁度壁の役目をしていて、攻めるスキがない。
 手も足も自然に曲げられ、ハッタリ臭くはないが、いつでも攻撃に転じられる体勢なのだ。恐らく東洋系の武術なのだろう。そのガードを抜いて攻めるイメージが、どうしても湧いてこない。
 とその時、信じがたいスピードで、ラルの正面に掌が飛んできた。彼は確かに、後ろに引いた足を使って、見たことのない踏み込みをしたのだ。
 予想よりずっと手元に入ってきたその掌底を、ラルはかわせなかった。咄嗟に同方向に身を引いてダメージを相対的に減らしてみるが、その破壊力もまた、ただの空手の掌底突きの比ではなかった。
「くっ!!」
 僅かに脳を揺らされて、ラルは綺麗にダウンした。空手使いとは何度かやり合ったことがあり、自らもたまに空手技を使うが、こんなに効く掌底は初めてだ。空手ではないのかもしれない。
「大丈夫か?--別に立ち技をやらないとは言ってないぜ。」
 後ろ受け身をとって尻をついたままのラルを見下ろし、桜井が言った。その口調にラルがムッとして、8カウントほどのダウンから立ち上がる。
 この男はまず、立ち技からラルの自信を崩そうとしているのだ、と彼女は直感した。新しいことを教えようとする時、生徒の自信が教授の妨げになることは、確かにある。しかし何か腹立たしかった。何より彼女はまだ若かった。
 鋭い踏み込みで距離を縮め、打ちにくいインの間合いから、敢えて強烈なフックを浴びせる。この1インチの距離から有効打を放つには、驚異的にシャープな体重移動が不可欠である。それは、否定されかかったラルの自信を誇示するような一発だった。
 報復と言わんばかりに桜井の耳の辺りに打ち込まれたフックが、彼の頭部を横に揺らす。
(確かに、やるな、こいつ…)
 三半規管のダメージで、桜井がダウンしたところへ、すかさずラルがアキレス腱を取りに行った。そもそも指の出るグローブを着けたのも、関節技のためだった。基本的な技しか知らないが、今までそれで何度も勝ってきた。それが自信だった。しかし、
「あちゃあ、やっちゃったよあの娘。」
 とマルクが目を覆った意味が、ラルには全く分かっていなかった。

 極めた筈だった。しかし、訳の分からぬ掴まれ方で脚を持たれたかと思うと、次の瞬間にはいつの間にか、自分の膝がしっかりと固められていた。
「えっ?」
 自分の体がどうなっているのか分からない。とにかく見たこともないような手と足の微妙な組み合わせで、右脚が全く自由を奪われているのだ。むろん外し方も分からない。動けば動くだけ、自分のものであるはずのすべての筋肉が激痛をもたらすだけだ。
 堪らず、手にした桜井の脚を離し、柔軟な体を反らせて痛みに耐え、何とか突破口を探そうと試みる。桜井が面白いほどよく曲がる体から手を放すと、彼女は弾かれたように前方に倒れ込み、咳き込んだ。
 全身に脂汗が出ている。
 こんな事は初めてだった。振りほどくでもなく、ラルが仕掛けた関節技を、より高度な関節技で返してくる
 極めて限界に達しそうになると、桜井が技を解く。また極めて、返される。かけられれば返せない。体は面白いほどにくるくる返された。そんな壮烈な絡み合いが何分続いたのか、もうラルには分からない。
 何度目かの脇固めを極められ、それでも諦めずに体を捻ったり、相手を掴んだり、と試みる。無駄だとは分かっていても、そうする他なかった。
 とその時、くるっと二人の上下が逆転し、一瞬のみだが、ラルが桜井の腕を極める形になった。が、ホールドが甘く、すぐほどかれたのだが。
(あれ?今、確かに…)
 自分でも信じられなかったが、確かに返し技が出た。
 桜井もまた、驚愕していた。何も教えていないのに、体で、しかもその場で返しの要素を学び取るとは、予想もしていなかったのである。
「よし、もういいだろう。とりあえず合格だ。」
 桜井が、立つ力が残っていないラルの手を取ってそう言うと、ジムルーム中がどっと歓声で溢れた。
「やりすぎたか?悪かったな。」
「いえ…」
平気です、と言おうとした瞬間、気が抜けた所為か、激しい吐き気が襲ってきた。堪らず口元をふさぐラルに、桜井がまた冷たく怒鳴る。
「こら、ここで吐くな!トイレはそこ出て左!」
 返事も出来ずラルが走り出すと、野次馬達もさっと道を空けた。巻き添えを食ってはたまったものではない。
 「桜井さんらしくないですね、こんなやり方。」
タオルと上着を差し出してホセが言う。
「…そうだな。」
「どう思いました?彼女。」
「予想以上ではあったな。勘もバランスもいい。…ただ、やっぱり、合格にすべきではなかったかもな…」
「彼女の為には、ですか?」
 桜井は答えなかった。

 ラルは、泥のように眠った。こんなに疲れたのは何年ぶりだろう。
 ベッドを置いただけの部屋を与えられ、荷をほどく余力もないままに、Tシャツとショートパンツだけに着替えて、床についてしまった。
 睡魔が、心地よい重みでのしかかってくる。だが、
(んー?)
睡魔のものではない、異様な重みで、ラルは夜中に目を開けた。
そこにいたのは、
「あれ
、起こしちゃった。いやーラルちゃん、寝顔も可愛いねえ。」
「あーっ!!あんたさっきの!」
 のしかかっていたのは、マルクだった。いつもならすかさず振り払う所だが、その力もも残っておらず、ラルは焦って叫び声を上げた。
「なっ…何してんだ、このクソバカ野郎!」
「何って、やっぱ一つしかないでしょ、ねえ。大丈夫大丈夫、痛くしないから。」
 いかにも軽そうな男だとは思ったが、まさかその日のうちに夜這いをかけてくるとは思わなかった。
「そーいう問題か!さっさと放せ!」
 事ここに至っては、上官も新兵もない。喚きながら、腹這いに押さえ込まれたラルはいよいよ暴れ出した。
「ラルちゃん、格好いいなあ、そういう乱暴な喋りも。」
「この、調子に乗ってると…!」
渾身の力で体を反転させ、同時に肘の一撃を見舞った。そして、
(桜井さんは、確かこんな風に…)
 マルクの体が浮いたところで、兎に角さっき見た掌打を叩き込んでみる。
 世界一嫌な感触がした。
 次の瞬間、マルクがやはり嫌な悲鳴を張り上げて、股間を押さえて蹲った。男ならば誰しも聞くに耐えない、声にならない声だ。その声で数人が駆けつける。
「何騒いでんだ、そこ!」
「あ、桜井さん、ひどいんですよ。マルク准尉が私のこと襲ったんです。」
「…これだから、女がいると面倒なんだよ。」
「それ、あたしのせいじゃないでしょう。--ところであの掌打ってこうでしたっけ?」
「…いや違う。まず立ち方がこう。」
 技のレクチャーを始めてしまったラルと桜井に、苦しい息の下から、マルクが泣きついた。
「あのー、無視しないで欲しいんですけどー。」
「お前は、自業自得だろうが。」
「ほーんと。嫌なもの触って気持ち悪いですー。」
と。ラルがふざけて高笑いする。
「くっそー、どうにかなったらどうしてくれるんスか!」
「お前のは、少しおとなしくなった方がいいんだ、世のために。」
 桜井は笑いをこらえつつ、それでも冷たく言い放った。

 ともあれこれが、ラル・クラインの傭兵生活第一夜であった。