第二部 遺産都市

第四章 闘神の森(2)

 
 意味が----分からなかった。
 「やっと逢えた」?
 自分を、まるで自分を探すような口振りだった。
「何を……」
思わず、譫言のように口走っていた。
「噂のルーキーに、会いに来たのさ。」
「ふ」
ふざけるな、と吐き捨てて、ラルはただ体中が熱くなるのだけを感じつつ、間合いを取り直して、文字通り刃の立たないナイフをかざした。
 想像の付かないシチュエーション、想像を越えた会話のやり取りに、判断力が付いていっていない。「ナイフコンバットは止せ」と受けた注意を覚えていながら、そうするしかなかった。もっと言えば、自分のどんな攻撃も、およそ通用する気がしない。こんな格下感は、桜井に対してすら持ったことがないというのに。
 自分に立ち向かってくる、その鋭い目つきと視線を一瞬からませ、ディーヴァは満足気に笑みを浮かべた。
「そう、そうだ。かかって来な。」
 と言って、わざと間合いを遠目に直して、ナイフを構える。
利き手は左。しっかりと、しかし余分の力を一切加えず、柔らかくホールドしている。右手はフリーにして、体の動きのコントロールに備え、バランスの良い、自然な構え。まるで教本でも見ているような、自信に満ちた美しい姿勢だ。
 ケブラースーツのため、効果が全く期待できないのなら、露出している部分を狙うしかない……が、狙い所が見え見えの上、何処にも隙などない。
「おらおらッ、足が棒だぜ!」
 ディーヴァの後ろ足が地を微かに蹴ったかと思うと、黒い刃が手元に迫る。凄まじい速さの前後運動に、刃を合わせて止めるのが精一杯だった。そのアクションも、緊張の余りに、腰が入らず手打ちになってしまう。
「そんなもんかオイ!」
 上に下に動きを散らされ、手元で何回か火花が散り、鋭いラッシュをラルに食らわせ、ディーヴァが 後ろに下がる。
 その瞬間、防ぎきれなかった刃が、ラルの左の手首から肘を一直線に切り裂いていた。
上着と気休め程度のケブラースーツを紙のように裂き、浅いながらも鋭い傷を与えられた白い腕から、鮮血が走る。
 この男。
 傷の程度を一瞥して確かめ、同時にラルはクリスリーブのナイフを、右に持ち替える。
 ナイフコンバットの基礎は、フェンシングの動きにある。ディーヴァはそれを極めているのだ。
 何処をどう攻めても。
 敵う筈などない。
「両利きかい。珍しい。」
 チャキッ、と相手はナイフを構え直す。基本通りに、親指と人差し指付け根だけで保持しているナイフは、彼の意のままに、しなやかに踊った。
 しかしながら、利き腕が違うのは不利である。
 敵の懐に入るには、自分の体を、裏も表ももろに突っ込ませなければならない。その上、リーチでも大きく劣っている。
 それでも。
 ラルは、ディーヴァの眼から視線を逸らさない。実力差が段違いなのだ。少しでも眼を動かせば、次の行動が読まれてしまう。
 そのまま。
 一瞬の息吹さえ悟らせず、大きく左に飛んだ。
 と思わせた瞬間、更にその倍のスピードで右に体重移動。
 その動作の中で、クリスリーブをもう一度左に持ち直し、ディーヴァの左脇をくぐるようにして、左後ろ側に回り。
 そのまま、上から体重を掛けて後ろ頸に刃を突き立てる。
 筈だった。

 「成る程、面白いっ」
金髪と、形の良くない耳越しに、
彼が不敵に笑っている。
「そこまで動けるか。だが……」
 ディーヴァは、振り上げた腕を後ろに回して、正確に、肘で頸をガードしていた。
 必要最小限の動き。たとえ一瞬幻惑されても、相手の意図と動きを冷静に分析している。窮余の一撃は、肘を覆うケブラースーツと手首のサポーターに、ものの見事に阻まれた。「だがまあ、ここまでだろ。」
 静かにそう言うと同時にラルの方へ向き直り、左手の傷の上から二回、組み手を落としてナイフを叩き落とし、同時に下腹に二発当て身を食らわせ、筋肉の緊張した箇所をなくして置いて、綺麗に投げ飛ばした。

 凄まじい衝撃に、弓なりになったまま体が大きく弾んだ。
 視界の中で、暗い梢が歪む。月は隠れている。
 受け身も取れないダメージに、それでも気力だけで、肘を立てて這い上がろうとする。
 目の前に、ディーヴァの軍靴。
 生殺与奪は、全て彼にある。
 ただただ、冷たい感覚。
 経験のない無力感だけが、死の予感よりも強く彼女を苛んでいる。
 殺される。当然だ。
 戦場で、全く力が及ばないのだから。このまま。何も出来ず。
「名前は。」
 頭上遙かの声に、ラルは答えず、為すすべなく地面を睨み付けた。
 その反応に、眼前の靴が、肩を蹴りつけ、顎からまた土にまみれたラルの上腕部を踏み付ける。苦痛に頬が引きつった。
「おい、こっちは何もお前さんみたいなペーペーから、何か聞き出そうなんて思っちゃいねえんだ。……黙秘するときもなあ、所属と名前くらいは言っていいんだ、って、桜井さんから習わなかったかい。」
 そう言うと、ディーヴァは片手でラルの頭を掴み、そのまま強引に上を向かせた。凄まじい握力のせいで、こめかみが痛んだ。
 もう一度、今度はさっきよりずっと近い距離で、ディーヴァが ラルの顔を観察する。
 言いようのない屈辱すら感じたが、その気迫に押され、目を逸らすことも出来ず、ラルもまた、彼の----暗がりに瞳だけが良く輝く表情を、焼き付けるように見つめた。
 出逢いから、彼から視線を逸らすことが、全く出来ないでいるのだ。
 鋭い瞳。よく見れば薄いブラウンなのに、気迫のせいなのか、赤く光るように見えて仕方がない。
 こんな……こんな目つきの人間とは、これまで出会ったことがない。
 この、熱いような視線の中にあるのは、自分を凌辱しようという欲望ではなく、ただただ軍人の職務を果たそうという信念でも勿論なく。
 痛いほどの殺気。戯れや温情では決してなく。
 残忍であり、この上なく楽しそうであり、恍惚としたものすら伝わってくるのは何なのか。
 この男は、自分に何をしたいのか。
 それが全く読めず、目前の死よりも、そちらの方に、ラルは戦慄した。
 生まれて初めて、多分、無様なほど顔色は青ざめ、震えているのかもしれない。それすら、もう分からなくなっている。
「俺は、ディヴァルト・サキオン。」
「……ディー?」
「ディーヴァってのは、まあ、略称さ。……フルネームで覚えときな。それが、お前を殺す男の、名前だ。」

 そうだ。
 やっと逢えた、と、さっきこの男は

「立って逃げろっ、ラル!!」
 その瞬間。
 奇妙な沈黙を、桜井の指示が破った。
 ディーヴァは反射的に立ち上がり、桜井のいる方向----彼にとっては正面、ラルには背後----に向き直る。すかさずラルは我に返り、自由になった体で、走った。
 足がもつれて、重い。
 俺の後ろ方向に逃げろ、と、桜井が眼で支持をよこす。
 異様に長く感じられた、高々200mの距離を。走りきって、桜井の伸ばした手に触れるかと思った瞬間。
 銃声。
 背後の風が切れ、桜井の体が、肩から後ろに吹き飛ばされた。
 ほんの刹那遅れて、固い物が割れたような、何か厭な、妙に通る音が後を追った。
 硝煙の匂い。
 振り向くまでもない。ディーヴァが、桜井の肩を撃ち抜いたのだ。
「桜井さん!!?」
「構うなバカ!!」
 駆け寄ろうとするラルを、桜井が声で制する。
 肩口を押さえて蹲る桜井だが、出血の様子はない。とすると、ディーヴァの銃弾……噂のDイーグルのマグナム弾はスーツで止まったらしいから、さっきの厭な音は、肩の骨が折れたか、脱臼した音なのだろう。打たれた右肩は、桜井の利き腕。更に、軽い傷だが、太股にも一発食らっている。
 多分、平素の桜井だったら、こんなに綺麗に撃たれることはない筈だ。
 自分が逃げ切るまで、敢えて待っていたのに違いない。
「いいから走れ!……ここをまっすぐ抜けたら、マルク達がいる筈だ!」
 指示は、耳に入っている。
 しかし。ラルが、傷ついた桜井を見るのは、これが初めてだった。
 その瞬間。混乱していた頭が、ふと明晰に働く。
 はじき出された答えが命令を下す前に、ラルはルガーを抜き、桜井を庇うようにして、片膝で身構えた。
「桜井さん、早く行って下さい!」
 自分でも驚くほど、凛とした声が腹から出た。
「こんな所で、指揮官を失うわけにはいかないんです。」
「ばっ、馬鹿野郎!俺の話の何を聞いてたんだ!」
「流石桜井さん。教育がいいねえ、この子は。」
 ディーヴァが、サイトをしっかりラルの眉間に合わせたまま、二人に距離を詰める。
 悠然として歩み寄る。
 ラルが、握力の戻らない、傷から血の吹く左腕に右手を添え、ルガーの引き金を引く。
 当たる。その度に、ディーヴァの歩みが少しだけ止まる。
 が、それだけだ。
 彼のケブラースーツに、ハイロードとはいえ、9mmパラなど効くはずはない。そのうえ、肩から上には、一発も着弾していない。
 ディーヴァは、先程より更にデモーニッシュな笑みを浮かべ、Dイーグルを二発撃てば全て片が付くこの状況を、敢えてそうせずに、ただ距離だけを詰めてくる。

 何故撃たない。何故殺さない。
 巫山戯ている。
 こんな時なのに、怒りと、まともに相手に見なされていない喪失感がこみ上げてくる。
 そして、実際急所に着弾できない自分に腹が立つ。

 「ふざけるな」
 その言葉を投げつけられたのは、ラルの方だった。

「実に美しいなあ、桜井さん。でもこの子は。」
 ラルが、マガジンを撃ちきるのをわざと待ち、平手4発、ラルの頬をはり倒して、ルガーを叩き飛ばす。
「ふざけてるよ、なあ!」
 肩口を見せているラルを、背中から蹴倒し、そのまま頭を掴んで、桜井に押しつけるようにして、体の自由を奪う。
「俺と相手してるのに、上官なんか庇ってなあ。」
 すらっ。
 刃が、ケースの中を走る音がする。
「やめろっ、サキオン大尉!!」
 桜井が絶叫するのと、ディーヴァの切っ先がラルの肩甲骨の下の皮膚を、スーツごと切り裂き始めるのは、ほぼ同時だった。
「うっ・・・・・・・」
 顔面を桜井の胸板に押しつけられたまま、ラルはそれでも悲鳴を抑え、低く呻いた。
 左から鋼の刃が、弄ぶようにゆっくり走り、それを追いかけるように皮膚が裂けていき、皮膚の下の薄い脂肪の層が現れ、一瞬遅れて鮮血が走っていった。
 激痛が追いかけてくるのに合わせ、ラルの背がのけぞり、左手は土を、右手は桜井の軍服の胸を、無意識にかきむしって、懸命に悲鳴をこらえている。
 痛号の替わりに、砕けるほど歯を食いしばる音が、桜井にも聞こえた。
「声も出さない、か。大したもんだよ、実際。」
 右の脇近くまで刃を引き、ディーヴァはそう呟くと、そこから更に刃を返して、左下に向けて、一気にナイフを引き下ろした。
 服と皮膚とが裂ける音、そして、動脈でも切られたか、脇の方から吹き出すような出血。
「うくっ・・・・・!!」
 びくん、とのけぞって、ラルは桜井に倒れ込み、脱臼している彼の肩口に、渾身の力で抱きついた。
 その瞬間、鈍い音が響き。
 それに続いて、大口径の銃声が、黒い森に轟いた。