第二部 遺産都市

第五章 傭兵の条件(3)

 
 「よう、ミゲルじゃない。しばらく。」
 日が高くなってから、もう一度マリアの所に向かう、その途中で知った顔に逢い、思わずラルは声をかけた。
「どぅわあっ、ラルじゃねえか!か、帰って来てたのかよ!!」
 嘗ての敗戦の記憶が一瞬で甦って、ミゲルが素っ頓狂な声を出す。
「おおおおお前、傭兵やってんじゃなかったのかあ?!」
「ちょっと訳あって里帰りしたんだわ。……でさあ、久々にどう?」
「……どうって、何を。」
「何をって。あんたと寝ようなんて言い出すわけないでしょ。あんたの言い値でいいからさあ、また賭けてファイトしない?」
「何でだよ。」
「何でって……ヒマだから。」
 そう言ってミゲルを見上げるラルの表情はあくまでニュートラルで、以前にちらちら見せていた殺気のかけらが見当たらない。その代わりに、刃の鋭さに応じた鞘を手に入れた、奇妙な安定感がある。それが、以前とは較べものにならないほどの恐怖を喚起した。
「冗談じゃねえ、プロとなんかやるかよ。大体お前、何人人殺してきたんだ?」
「あー?……そんなの、一々覚えてるわけないでしょ。」
 事もなさげに言って、凄むでも斜に構えるでもない。心底、背中に氷でも入れられたような気になって、
「……とにかく、俺はリンダの所から帰って来ただけだから。分の悪い勝負はやらねえの、俺は。」
「あっそ。じゃいいや。」
 あんた達、何だかんだ言ってまだ続いてたのね、とだけ言い捨てて、ラルはそれ以上彼に絡むのをやめた。
 どうやら、この数カ月の短い期間に彼女に起こった変化には、ミゲルのような男の方が敏感に感じ取ったようであった。

 「……それで、何で戻されて来ちゃったの?」
「あたしの方が聞きたいよ、そんな事。うーん、とにかく、上官に言わせれば”ダメ”ってことらしいよ。あ、ありがと。」
 要領を得ない答え方をして、ラルはマリアの入れてくれた紅茶を受け取った。香りがいい。
 実際、何をしていても、安息と引き替えに体中の毛穴から力が抜けていくような虚脱感を感じる。桜井の貧乏性がうつったのかもしれない、とも思えるほどだ。
「……怪我したんだって?」
「あー、大したことない大したことない。」
と、かぶりを振ってみせる。そうしないと、傷口を見られた日にはこの養母は卒倒してしまうに違いない。
「何だかねえ、つまらなさそうにしてるね。」
「そうかな?……いや、実際気は抜けたけどね。」
「コーンウォールって、良い所らしいじゃない。」
「まあ、あそこが一番地球に近い気候だって言うよね。でも、あたしには暑かったなあ。ははっ、でもまあ、戦争やってなければ良い所かもね。そうなったら、観光客ばっかだけどね。」
 香りを楽しんでから、紅茶のカップに口を付ける。マリアと話すのは懐かしいのに、何だか言葉が上滑りするような違和感がある。無意識に、話題を、話の方向を選んでいる自分がいる。
 ふと、どうでもいい筈のことを聞きたくなった。
「マリアさあ、聞いていいかな?」
「ん?」
「なったいきさつとかは……どうでもいいんだ。あのさ、マリアは……この仕事、やめようと思ったことある?」
 一瞬の沈黙。マリアがカップを皿に置く。軽い音。
「あったよ。何度も。」
「じゃあ、どうして……やめなかったの?」
「…………」
「やめられ……なかった?」
マリアは黙っていた。下に向いている顔の眉根が歪んで、しばらくしてから大粒の涙が落ちる。ラルは慌てて椅子を蹴って駆け寄る。
「マリア!ごめん……あたし、何言ってんだろ……」
 静かに泣き続けるマリアを、ラルは正面から抱き止めた。
「そんな事、どうだっていいのに……ごめん。あたしどうかしてた。もういいよ、マリア。」
 どうでもいいことだったのに、どうして彼女が苦しむに決まっていることを言ってしまったのか、自分でも分からなかった。ラルは必死になだめた。
「……ううん、いいよラル。……お前、こういうこと聞くの、初めてだね。……いいよ、いいんだよ、それで。」
「マリア……?」
「そうね、自分でも上手く説明できないけど……ラル、うちの女の子達も、ここを出ても勝手に戻ってくる子がいるでしょ?」
「うん。じゃあ……」
「あたしも、あんな感じでいるうちにいつの間にか年取って、こんな風に暮らすようになって……説明になってないかな?」
「ううん……分かるよ、それで、いいよ。」
「ああいうのは……どうしてなんだろうね。今思えば、自分の居場所を見つけた気分になってたんだよね。」
「そっか……ごめん、ごめん。もういいよ、マリア。」
 ラルは優しい力で養母を抱きしめて、何度も彼女の名前を呼びながら、ひたすら謝った。
 マリアの言うとおり、こんな事を尋ねたのは初めてだった。そんな事をしてしまった理由が、いつの間にか分かりかけていた。

 その夜も、エドの店で夕飯を食べた。料理をしないたちではないが、自分一人分だけの食事を作る気にはなれない。以前は、交代で三人分を作っていたものだ。習慣の問題である。
 ついでに、酒も頼んだ。
 知り合いなのをいいことに、エドは食器も下げに来ない。その置きっぱなしの汚れた皿を前に、ラルは組んだ両手に額を載せて、考えるともなく意識を澄ませた。
 最初は、エッカーマンと意外な出逢いをして、好奇心と漠然とした予感にせき立てられるようにして、この街を出た。今は、あの時とは少し違う。耐えたものがある、手にいれかけたものがある。
 桜井に呼名されて答えるとき、自分でも信じられない程、声には張りがあった。同じフォワードメンバーを信頼して周りを任せ、バックスに後ろを任せ、自分もまた先鋒役としての小さな信頼を勝ち取りつつあった、と思う。
 敵を殺す、という形で自分が生き延びる日々。あの毎日の、肌を刺すような緊張感。そして。背中の傷が、まだたまに引きつれるような感覚。ディーヴァ・サキオン。
 ゆっくりと、顔を上げる。鳶色の瞳には、いつにも増して静かで鋭い光が宿っている。
「エド!頼みがあるんだけど。」
 店主が近づいてきたのを見計らって、そう声をかけた。
「何だ。金でも貸せってか?」
「近い。……実は、大口のローンを組みたいんだけど、保護者兼保証人になって欲しい。いい?」
「俺んとこから買うんだったらいいぜ。」
「勿論そのつもりだよ。」
「おう。……で、何買いたいんだ?」
「実はさあ……」
 と、買いたい物品を告げると、エドは色んな意味で面食らった表情を見せたが、すぐにいつものビジネスライクな口調に戻って、全く仕方がねえなあ、と繰り返した。
 ラルは何も言わず、ただ、多少すまなそうに苦笑した。

 

 それから、更に一週間を数えた。
 コーンウォールのベースキャンプでは、作戦を終えた黄昏時、手の空いた者から適当にばらけた時間で夕食の卓に付いている。ありふれた一時に、窓の方に向かって座っていた数人が、ふと視線を外に集中させる。
「おい、あんな車の奴いたっけ?」
 見ると、沈みかけた夕日を受けて、ベースの建物の方に走ってくるオープンカーがある。色は分かりにくいが、赤系のようだ。
「……ったく、どこのバカだよ。こんな時に、こんな所に赤いカブリオレで来る脳天気はよう……」
 と、野次馬根性で首を伸ばしてみたマルクは、突如、呟きも半分のまま、スプーンをくわえて凄い剣幕で食堂を出ていった。椅子は蹴飛ばす、コップの水は零すで、尋常ではない勢いである。
「何だあアイツ。 ……マルクの奴、ここで一番目がいいからなあ、何か見えたのか〜?」
 同僚が呆れたように呟いて、身を乗り出して外を眺め、奇声を発した。

 赤いカブリオレは、広い駐車場で派手にスピンターンをかまして停車した。
「うわははははっ、こいつ、やっぱり帰って来やがった!!」
 他の誰をも差し置いて、マルクが口のスプーンをすっ飛ばして走ってくる。
「へへっ、あんたが最初に来ると思ったよ!」
 と、ラルは笑ってシートベルトを外す。マルクを追うように、食堂にいた連中も、他の部屋にいた者も、駆けつけたり窓から顔を出して、彼女の帰還を見ている。
「ちょっとどけ!……どういうことなんだ、これは。」
 人垣を一喝して、桜井が前に出てきた。
 ラルはすかさずドアを開けずに飛び越して、私服の襟を正して敬礼した。
「桜井少佐、志願兵ラル・クライン、補充要因として6月10日19:06に着任いたします。ご承認下さい。」
 そう、この声の張りだ、とラルは実感する。
「しが……お前、わざわざ一般志願したのか!どういうことだ。」
 最初のスカウト扱いと違って、自薦の一般志願は給料も待遇も一段低い。その手続きがこうも簡単に済んで、しかも以前と同じ部隊に配属される裏には、例によってエッカーマンが一枚噛んでいるのに違いない。桜井の仏頂面が一層険しくなった。
「しかも何だ、この車。」
「アルファロメオの、ジュリア・スパイダーです。」
「……またそういうクラシックなものを。高かったんだろう。」
「そうです。その借金の金を作らなきゃいけないもので。」
「てめえ、ふざけるな!二度と来るなと言ったのに、軍隊を何だと思ってんだ!歯ァ食いしばれこの馬鹿!!」
 しゃあしゃあとした生意気な答えが神経に触って、桜井はラルの横っ面を殴った。平手ではない。手痛い拳骨は、性差のない軍隊流である。
 手加減した気配のない一発に、ラルはそのまま地べたに倒れ込んだ。そのまま、見下ろすようにして、桜井が詰問する。
「……そんなに、人殺したりないか!」
「……」
「そんなに軍隊がいいのか!」
「はい。」
「ふざけるな、お前に傭兵の何が分かる!」
「すみません!」
「言っとくが、女扱いはしねえぞ!ヘボやったらまたクビだ。」
「はい!」
「戦争ない所に行ったら、戦争したくなったのか!」
「はい!」
「お前みたいな奴が、一番始末が悪いんだよ!」
「はい!」
「ったく、好きにしろ!部屋は前と同じ所を使え!」
「はいっ、桜井少佐!」
「階級で呼ぶな!」
 桜井はそう言い捨てて、髪の毛をかきむしりながら背を向けた。足早な歩き方が、いかにもな不機嫌を表現している。
 その指揮官と入れ違うように、マルクや同じフォワード班だった顔見知りの連中が、歓声を上げながら走り込んでいる。帰って来たな、と口々に歓迎する間で、嬉しそうに頷くラルの姿が見える。
 本当は、桜井には「帰って来た」と言いたかったが、それはかなわないことだった。しかし、それはそれで良かった。彼の言うとおり、自分の感覚は既に何処か壊れてしまっているのかもしれないが、それもそれで良かった。
 「結局、こうなっちゃいましたねえ。」
人の流れに逆流して帰ってくる桜井を、玄関口で待ち構えていたホセが、すれ違いざまに桜井に言う。彼の表情も、心なしか嬉しそうではある。桜井は溜めに溜めた息を大きくつき、
「どうしようもねえなあ。バカだよバカ。」
後頼むぜ、と肩を叩いて、不本意満面で中に入ってしまった。
 これでいいのか悪いのか、誰にも分からない。きっと桜井にも分からなくなってしまっているのだろう。それは仕方のないことだ。
 どう思ってホセは、仕方ないですよ桜井さん、と静かに呟いた。